伝統や文化を自分とは遠いものと感じてはいませんか?
良いものだからこそ洗練され、残されてきた文化であり技術です。
手法は違えど、昔からの考え方や先人の知恵は現代のものづくりにも通じるものです。
良いものをつくろうとする際のものの考え方や姿勢は昔も今も変わらないはずです。
場所や分野、時代を限定するものではありません。
それらは気付かなくても身の回りにたくさん現れています。
まずは固定概念に囚われずに伝統に触れてください。
そして、伝統をより身近なものに感じてほしい。
このサイトにはそのような思いが込められています。
飛鳥時代
| 飛鳥建築の特徴 |
| この時代の特徴的なのが柱のふくらみです。 「胴張り」と呼ばれ、下から約1/3部分が特に太くなっています。 そして屋根を支える組み物部分に「雲斗(くもと)」や「雲肘木(くもひじき)」を使用しています。肘木が笹繰(ささぐり)となっていたり、高欄の中に卍崩しなどの組子があるのも特徴です。また、金物や釘がない時代に考案された工法「皿斗」「大斗」「雲斗」「雲肘木」といった組手が挙げられます。 仏教の伝来とともに、蘇我馬子が奈良県の飛鳥に作ったのが法興寺(飛鳥寺)です。当時は寺院建築の知識もなく、百済から大工を呼んで建築されたとも言われています。配置や平面構造も左右対称で、南大門・中門・塔・中金堂・講堂が一直線に並び、左右に西金堂と東金堂が並んでいます。回廊で囲むようにまとまり、飛鳥寺式の伽藍配置と言われています。伽藍自体も寺院建築の独特のものがあり、建物を単体ではなく、複数で構成されるのも特徴です。 |
| 法興寺(飛鳥寺) |
| 仏教の伝来とともに、蘇我馬子が奈良県の飛鳥に作ったのが法興寺(飛鳥寺)になります。当時は寺院建築の知識もなく、百済から大工を呼んで建築されたとも言われています。配置や平面構造も左右対称で、南大門・中門・塔・中金堂・講堂が一直線に並び、左右に西金堂と東金堂が並んでいます。回廊で囲むようにまとまり、飛鳥寺式の伽藍配置と言われています。 |
| 四天王寺 |
| 飛鳥の法興寺に続いて建築されたのが、 大阪の天王寺にある四天王寺と言われています。名前の通り、四天王像を祭る為に作られ、聖徳太子建立7大寺の1つに数えられています。中心伽藍(ちゅうしんがらん)という配置方法が有名で、伽藍は「お堂」を意味し、南大門・中門・五重塔・金堂・講堂と直線上に並び、回廊で周りを囲む配置になっています。現在では、鉄筋コンクリート造になっていますが、その当時の建築に近づける形で実現されています。 |
| 法隆寺 |
| 奈良県斑鳩(いかるが)にある、聖徳太子ゆかりの寺院。7世紀に建築され、世界最古の木造建築として現存しています。五重塔は、高さが30mを越えていたり、積み上げ式の構造など、現代の木造建築では想定しづらい形で実現しています。平面構造では、3間(約5.5m)の正方形で組まれており、上層に向かうにつれ、小さくなっていきます。積み上げ式の構造(今でいう免震構造、古民家なども似たような工法)や、正方形に近い形など、先人の知恵が災害を乗り越えたといっても過言ではありません。また、「心柱」と言われる「檜」で作られた一本の柱が、通し柱のように上層から下層まで通います。「心柱」は太さが直径約78cmもあり、普通の木造建築で使われている柱の6倍から8倍の太さになります。飛鳥時代の建築物の特徴のほとんどは法隆寺で確認することができます。 |
奈良時代
| 寺院建築の特徴 |
| 奈良時代は、奈良のに都が置かれていた約80年間を指し、建築様式も飛鳥時代から引き継がれてきたものが多いです。飛鳥時代と同じく、奈良時代も「寺院建築」が盛んだった時代とも言えます。構造としては、柱を使わずに井桁上に材料を組み合わせる「校倉造」が採用されることが多くなりました。時代が移り変わり、建築様式も多様になり、 寺院建築は、後の平安時代で、「和様」「禅宗様」「新和様」などの様式に進化し、様々な技術や文化が現代でも引き継がれています。 |
| 神社建築の特徴 |
| 神社建築は本殿・拝殿・弊殿の3つの建築から構成されている形が主流で、今も多くの神社建築が存在しています。代表的な神社建築は、「神明造」「大社造」「住吉造」などが挙げられます。神殿建築では、茅(かや)や檜(ひのき)などの自然素材が使われることが多く、寺院建築のように「瓦屋根」が採用されていません。屋根の造りや見た目だけでも違いが分かります。 |
| 寺院建築と神社建築 |
| 飛鳥・奈良時代から始まったとされる「寺院建築」そのきっかけは、中国大陸からの伝来とも言われています。 寺院建築の場合は、神社建築と違い「瓦屋根」が多く採用されています。神殿建築では、茅(かや)や檜(ひのき)などの自然素材が使われることが多いため、屋根の造りや見た目だけでも違いが分かります。 |
| 正倉院 |
| 正倉院は、奈良県奈良市にある校倉造(あぜくらつくり)の大規模な高床式倉庫になります。天皇・皇后のゆかりの美術品などを収納する場所として建てらました。高床式で床下の高さは2.5mもあり、明確な理由は分かりませんが、水害や湿気に対しての対策だったかもしれません。構造的な特徴は校倉(あぜくら)造の寄棟の瓦葺き。宝庫の環境を少しでも安定させるために、当時の最先端の技術が採用されていたかもしれません。 |
| 校倉造(あぜくらつくり) |
| 校倉造は、柱を使わずに三角形の木材を積み上げていく建築工法の1つです。床がすべて板張りであることが特徴です。化粧垂木とは別に「野垂木」を用いて、より頑丈な構造となっています。木材自体が乾燥・収縮を繰り返すため、それにより湿気が閉じ込められたり、隙間が広がることによって湿度が一定しないための対策として講じられています。しかし、瓦葺きの場合、屋根の荷重が重いため、そこまでの乾燥・収縮までならないとも推測されています。 |
| 和様 |
| 和様建築は、平安時代からの寺院建築が代表的です。柱の固定変わりに長押(なげし)を使ったり、縁側を作るなどの特徴があります。平等院鳳凰堂や金剛峯寺不動堂、当麻寺本堂などが和様建築における、代表的な建築物にあたります。大陸由来の建築様式に、日本ならではの特色を加えた建築様式です。従来の大陸建築とは異なり、床がすべて板張りであることが特徴です。また化粧垂木とは別に「野垂木」を用いて、より頑丈な構造となっています。また柱を使わず、三角形の木材を積み上げて壁にした「校倉造」も特徴です。 |
平安時代
| 平安建築の特徴 |
| 平安時代前期の建築物の特徴は、主建築が主体の専有空間であることは、それまでと変わらないのですが、客体のための空間が用意されるようになりました。具体的には、建物の前に回廊をめぐらし、中庭を造り、その中庭を客体のための空間としました。これに応じて建物に正面性がうまれました。間口が広く奥行きの浅いプランが多くなりました。前後非対称の造形が多くなされるようになりました。建物に正面性が生まれたことにより、正面を強調する工夫もこの時代からよく見られるようになります。来迎壁や脇障子を用いて、背後を遮断し、正面を強調することもありました。 |
| 平安貴族の住居 |
| 平安時代は794年に平安京に都を移してから、約400年間続いた時代です。この長い間に建築に関しても変化しており、平安時代の建築物には奈良時代とは違った特徴が見られます。この時代の建築物の特徴は上品さと繊細さです。細部にまでこだわり、見栄えに重視した建築物が多い傾向にあります。平安時代の貴族が住居として使用していた屋敷の多くは、寝殿造という建築様式で建てられていました。寝殿造では、大きな敷地の中に建物が複数建てられていて、それぞれの建物が廊下で繋がっています。建物内の部屋と廊下はすだれや屏風などで仕切っていたため、空間や隙間が多くあり、外からの冷たい風が入ってきました。敷地内には池や樹木などもあり、身近に自然を感じられる環境でした。寝殿造の屋敷は非常に優雅に感じられますが、冬はとても寒かったはずです。 |
| 寝殿造 |
| 貴族のための上品・繊細な建築様式で寝殿造りと呼ばれる建築様式が確立されたのは平安時代です。当時の上流階級、つまり貴族が住んでいた屋敷の様式です。奈良時代の重厚さとは異なり、寝殿造りには自然との調和を重視した「上品」かつ「繊細」といった特徴があります。中央に「寝殿」と呼ばれる「主殿」があり、屋敷の主人はここに居住しました。「寝殿」の東西両側には「コ」の字形に「対殿」が配され、それぞれの屋敷は「西対」、「東対」と呼ばれていました。各部屋は長い廊下で囲われ、屏風やすだれで仕切られていました。主殿には儀式や舞の舞台、その前には広い庭や池がつくられ、船遊びのための「釣殿」という家屋が設置されることもありました。しかし、平安時代に建てられた建築物のほとんどは、応仁の乱などの戦乱により滅失してしまっています。 |
| 興福寺 |
| 興福寺は、藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺です。古代から中世にかけて強大な勢力を誇りました。前身は飛鳥の「厩坂寺」で、さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源です。山階寺は、669年に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡大王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられています。その後、壬申の乱(672)の後、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされました。さらに、平城遷都の際、710年に藤原不比等の計画によって移されるとともに、興福寺と名付けられました。 |
| 興福寺式配置 |
| 主に奈良時代からはじまり、平安時代にも長期間に渡り流行した建築構成を代表する例として興福寺が挙げられます。寺院建築に限らず、宮殿、住宅、神社などにも興福寺のような配置の建築がよく建てられるようになりました。仏堂のまえに、人間が入って礼拝や儀式をするための中庭があります。中門の左右から回廊がおこり、中庭をとり囲んで、金堂の左右におわります。中庭の中には何もなく、塔は中門の外か、あるいは南大門のそとに建てられています。つまり、中庭が設けられるになったのです。回廊は、以前は塔や金堂など大切な建物を取り巻くための垣根であったのに対し、興福寺では、人間のための中庭を囲む垣根の役目をしています。中庭を設けたことで、仏堂に正面性が発生しました。金堂の内部は仏の専有空間で、人々の礼拝や儀式はすべて中庭で行われました。寺院建築以外では、平安宮朝堂院もこれと似たような構成をしています。さらに、その発展版として、鳳凰堂のような建築構成の寺院建築が流行します。こちらは、平安時代中ごろから頻繁に建てられるようになった形式です。 |
| 平等院鳳凰堂 |
| 平等院鳳凰堂は、平安時代後期1053年に、藤原頼通によって平等院に建立された阿弥陀堂です。華やかな藤原摂関時代をしのぶことのできるほとんど唯一の遺構として、このうえなく貴重な建築です。鳳凰堂は、池の中島に建てられています。堂内の中央には金色の丈六阿弥陀如来像が端座し、周囲の壁および扉には九品来迎図、阿弥陀仏の背後の壁には極楽浄土図が描かれています。そして左右の壁の上部には52体の雲中供養菩薩像が懸けられています。堂内の天井や小壁は、宝相華を主とする文様で埋めつくされていました。柱にも、天衣を翻して舞う天人や楽を奏する天人、飛び立つ鳳凰、宝相華、唐草文様などが描かれ、鮮やかに彩色されていました。建築の構成としては、中央に主建築があり、その左右から翼廊がでて前方へ直角に折れ、コの字形となり、その屈折点上に二つの楼閣をのせた左右対称の構成をしています。鳳凰堂には、尾廊という廊が後ろについています。前には池が配されています。 |
| 鳳凰堂式配置 |
| 興福寺式配置ですでに、正面性が発生していたことは、前述の通りです。そこで、主建築をもっと立派に見せるために、その正面を立派にしようと試みて発展したのが、この鳳凰堂式の建築です。正面が強調される分、側面や背面はあまり重視されなくなりました。プランとしては、間口を広く奥行きを浅くしました。この奥行きの浅いプランは、主建築にとどまらず、寺院の中門についても同じような傾向がみられます。なぜなら、初期寺院の中門は、回廊内の神聖な空間と外界との結節点として、機能上・造形上の理由から人が入って儀式の席などを設けられるように、奥行きの深いプランが要求されていました。しかし、客体のための中庭が設けられると、中門は単なる出入り口であれば良くなったため、奥行きが浅くなったのです。 |
| 鳳凰堂式配置の寺院 |
| これは、興福寺式配置の変形のひとつの形式とみなすことができます。正面性が極度に発展した究極のものと言えます。鳳凰堂と全同じ構成をしていないものでも、これに属するような建築は多く、例としていくつかを挙げると、仁和寺(888)、法成寺新堂(1050)、法勝寺(1077)、延勝寺(1149)、無量光院(12世紀末)などがそうです。11世紀後半から12世紀を通じてこの主の寺院がたくさん建てられました。現存する実例が鳳凰堂のみであるため、特殊な形式として捉えられがちですが、実はこの時代の寺院建築のひとつのタイプであったのです。鳳凰堂式寺院の特徴として、左右翼廊がコの字形をしていると言えます。これは、興福寺式の回廊の前半部を切除した残りで、左右の楼閣は鐘楼、経蔵が後方から進出し、装飾化したものと考えることができます。平安時代半ば頃の醍醐寺では、回廊は興福寺式ですが、鐘楼、経蔵は金堂の背後ではなく、東西回廊の中ほどにありました。仁和寺では南回廊がなくなっており、鐘楼、経蔵の位置はさらに移動しています。法勝寺は醍醐寺の前半部を取り去ったもので、鳳凰堂は仁和寺の東西回廊が短くなって鐘楼、経蔵が屋上の装飾になった形式です。寺院建築以外でも、平安宮の中和院、太政官、大学寮とこれに付属する南道院、算道院、明法道院などがこの種の配置となっています。中央奥に主建築があり、そのまえ東西に主建築とほぼ同形の二棟の付属建物が縦方向に置かれ、これらをL形の複廊で継いだもので全体としてコの字形をなしています。 |
鎌倉時代
| 鎌倉建築の特徴 |
| 奈良時代や平安時代と続いた貴族文化も、鎌倉時代から武家政権へと変化し、豪華な装飾が主流だった内容から質素な形へと移行していきます。鎌倉時代の建築の特徴 武家造・和様建築・禅宗様・大仏様建築 |
| 和様建築 |
| 和様建築は、平安時代からの寺院建築が代表的です。柱の固定変わりに長押(なげし)を使ったり、縁側を作るなどの特徴があります。平等院鳳凰堂や金剛峯寺不動堂、当麻寺本堂などが和様建築における、代表的な建築物にあたります。大陸由来の建築様式に、日本ならではの特色を加えた建築様式です。従来の大陸建築とは異なり、床がすべて板張りであることが特徴です。また化粧垂木とは別に「野垂木」を用いて、より頑丈な構造となっています。また柱を使わず、三角形の木材を積み上げて壁にした「校倉造」も特徴です。 |
| 禅宗様(ぜんしゅうよう) |
| 禅宗様は、禅宗と合わせて日本に伝わってきた中国(宋)系の建築様式にあたります。大仏様と似た要素を持ち合わせています。特徴としては、貫(ぬき)を多用した構造の補強、扇垂木(放射状の垂木)、火灯窓(かとうまど)、詰組柱と柱の間にもを入れる組物)、弓欄間、桟唐戸(桟と框の間に入子板を嵌め込む)など色々あります。円覚寺舎利殿や正福寺地蔵堂が代表的な建築物にあたります。 京都五山 南禅寺(別格) 天龍寺 相国寺 建仁寺 東福寺が代表的な建築物にあたります。 |
| 大仏様建築 |
| 大仏様も寺院建築の一つで禅宗様と似た特徴を持ち、日本の僧、重源によって伝えられた建築様式です。天井がなく垂木など屋根裏が見えたり、禅宗様でも使われている貫(ぬき)と言われる方法を用いられているのも特徴の一つです。東大寺の南大門 や開山堂などを中心に、大仏様は取り入れられています。東大寺南大門は、東大寺大仏殿へ向かう道中に位置する、高さ25mを誇る大門になります。大仏殿や五重塔は奈良時代に建てられましたが、南大門は鎌倉時代に再建されています。構造の役割を果たす柱は、大円柱の形状で18本も有り、柱の長さだけでも21mとされています。中には、向かい合う形で金剛力士像(仁王像)が待ち構えています。 |
| 武家造 |
| 武家造は寝殿造などと比べ、余計な装飾などを取り払い、実用性に特化させた建築様式になります。鎌倉時代から武家造が登場するようになり、幕府の将軍のための屋敷として建築がされることが影響しています。間取りや装飾なども変化だけでなく、建築の材料なども異なって来ます。武家造では板敷きに藁葺きの組み合わせが主流で、後の「書院造」へと影響を与えています。鎌倉時代以降、政治や文化は徐々に武士階級によって主導されました。書院造りはもともと「武家造り」とも呼ばれていたように、武士にとって大切な「書院」を建物全体の主室とする住宅様式です。当初は個人的な居室のある建物を指すものでしたが、時代がにつれ、書斎から接客のための広間、さらに儀式の場へと発展しました。背景には、武士の社会的地位の向上にともない、公的空間としての重要性が高まったことが見受けられます。また一般の武士階級の間でも、身分序列の差を意識づける接客空間として活用されました。 |
| 寝殿造との比較 |
| 寝殿造りと比較すると、さまざまな役割を担った大広間様式から、内部を大小いくつもの室に仕切り、用途に合わせた機能的な構成となったと言えます。間仕切りの必要性から、柱は丸柱かではなく、角柱が用いられるようになりました。さらに、これまで母屋(身屋)と廂の柱間寸法には、大小がありましたが、畳の普及に伴い次第に柱間一間は6.5尺に統一されていきました。建具については、腰高明障子や舞良戸そして襖障子などが多く使用されています。この時代には一間四方(二畳)を一間といい、六間[むま]といえば畳十二畳の部屋を意味しました。 主室(座敷)の構成は、正面に床と違棚を設け、縁側寄りに付書院または平書院を設け、反対側に帳台構を造る、といったものでした。建具はほとんど引き違いで、室内の間仕切りは、襖障子が使用さました。縁側回りは三本溝の敷居にし、舞良戸の内側に明障子か腰高障子が1枚はめられました。また、長押を室内に回し、彫刻欄間などを設けていました。 |
| 中世の住宅 建築内部空間の変化 |
| 中世を通じて建築空間が大きく変化していきました。これまでは、建築のプランが、構造的な制約から単純な矩形をしていましたが、内部の要求にしたがって自由に展開するようになりました。その最も早い表れは、禅宗仏堂の脇壇や腰かけの突出などに見られます。寺院の背面にも、内陣が突出しているものがあります。一般住宅では床・棚・書院などが突出するような形で自由な平面構成がなされるようになりました。 |
| 桟唐戸の伝来 |
| 鎌倉時代に入ると、遣唐使を廃止して以来途絶えていた大陸との交流が開始され、宋との交易が盛んになりました。 それにより、建築の分野でも新しい様式や技術がもたらされました。大陸様式の寺院建築に、新しい建具技術として桟唐戸が用いられました。桟唐戸とは、四周の框[かまち]と縦横の数本の桟を組み、桟と框の間に入子板を嵌め込んだ扉のことです。従来の板桟戸は分厚い板を数枚並べて框の枠を付け、裏桟に釘止めしたものでした。しかし、桟唐戸は、 和様の板桟戸に比較して、格段に軽いものでした。そのため日本でも、頻繁に和様の寺院建築にも採用されはじめ、さまざまな建築の扉の意匠に大きな影響を与えました。 |
室町時代
| 室町建築の特徴 |
| 室町時代の建築の特徴としては「書院造」が挙げられます。寝殿造から進化し、室町時代でほぼ完成を遂げ、広く普及し始めました。書院とは、書斎を兼ねた居住空間を表し、「違い棚」や「床の間」、棚、角柱、襖、障子、雨戸、縁側など、現代の和風建築の原形となる形がこの時代から誕生しています。また、庶民の住む家にも2階建てが増えてきています。もう一つ、室町時代を表す代名詞として「北山文化」「東山文化」があります。公家と武家の文化が統合された「北山文化」で金閣寺が建築され、後の「東山文化」で銀閣寺が建築されています。代表的な建築が表すように、書院や庭園への考え方など、その時代の特徴が反映されている部分があります。 |
| 書院造 |
| 室町中期からおこり桃山時代に完成した、武家住宅建築の様式です。今日のいわゆる「和風住宅」といわれる様式の原形と言えます。接客空間が独立し、立派につくられているのが特徴です。15世紀末に書院が形成され、畳が敷き詰められると、畳の数が空間規模の表現となりました。一間が定量化され、以前に「間」と呼んでいた空間を、そこに敷く畳の数で「何畳敷き」というようになりました。そして、座敷という空間も生まれました。主座敷を上段とし、床・棚・付書院が設けられています。畳を敷きつめ、舞良戸・明障子・襖を用いています。 書院造りの代表的な建物としては、書院の成立や各部屋の機能分化が認められる銀閣寺東求堂などがあげられます。時代が進むと、掛川城御殿のように床の間のある「座敷」が定型化し、これは現代にも継承されています。また、一般庶民の家にも書院造りは普及しました。とくに戦国時代後期からは商業の発達にともない、特に富商の間で武家にも勝るような立派な「書院造り」が登場しました。一方、平民が住む町家では、平屋建て、板葺き屋根など、書院造りながら非常に簡素なものも数多く建設されました。 |
| 畳の普及 |
| 室町時代の中期頃から畳が急速に普及し始め、書院(書院造りの座敷、又は居間兼書斎)などの小室には畳を敷きつめるようになりましたが、会所などの大広間では、周囲に畳を追回しに敷いて、中央には板敷が残っていました。 |
| 杉障子の誕生 |
| 寺院建築で用いられた桟唐戸の技術を、住宅建築にも応用させたものです。明かり障子は、下半分が雨があたりやすいため、その部分に板を張った腰高障子というものが考案されるようになりました。杉障子は、下半分を舞良戸仕立てにした、腰高障子が二枚引き違いに建てられています。絵を描き、壁の代用にも用いられていました。室礼としての襖障子の延長とも考えられますが、主に縁側と部屋との仕切りや縁上の仕切りにに使用され、また出窓形式の書院の窓にも使用されていました。杉障子の現存する最古のものは、兵庫県の鶴林寺本堂創建当時のもので、室町時代初期頃のものです。 |
| 金閣寺 鹿苑寺(ろくおんじ) |
| 金閣寺の正式名称である鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区に位置し建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築物にはなります。平成6年に「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産に登録され、室町時代前期に建てられてから、何度か再建を繰り返しています。平面構造は、正面側は5間(約10m)、側面の方は4間(約7.5m)、三層目が3間(約5.5m)と、シンプルな矩形式になっています。屋根の形状は宝形造のこけら葺き、1層目は寝殿造、3層目は禅宗様式の上、細部は舞良戸や格子戸、蔀戸や花頭窓など工夫が凝らされています。金閣寺の敷地自体が約40000坪の広さを持ち、大半が庭園での範囲になります。建物の美しさを引き立てるに相応しい庭園も「特別名勝」や「特別史跡」に指定されています。 |
| 銀閣寺 慈照寺(じしょうじ) |
| 銀閣寺の正式名称「慈照寺」は、京都府京都市左京区に位置し室町時代後期に建築されました。銀閣寺は、金閣寺と違って銀箔といった材料は使われておらず、建設当初は黒漆が塗られていました。2層構造になっており、1層目は住宅風の作りで、2層目(上層)は禅宗様式となっています。銀閣寺の庭園は、錦鏡池(きんきょうち)を中心に池泉回遊式庭園が広がっており、方丈の前庭にある白砂の砂盛り向月台(こうげつだい)と、波紋を表現した銀沙灘(ぎんしゃだん)など、建築物に引けを取らない優雅さを堪能でき、銀閣と合わせ東山文化を代表する建築の一つになります |
| 慈照寺東求堂 |
| 慈照寺[じしょうじ]は、京都府京都市左京区にあり、東山文化を代表する臨済宗相国寺派の寺院です。通称は、銀閣寺。創立者は、室町幕府8代将軍の足利義政です。東求堂[どうぐどう]は、初期の書院造りを代表するものです。足利義政の持仏堂で、1486年の建立です。池に面して建てられ、大きさは三間半四方。方二間の仏間、義政の書斎(同仁斎とよばれる)があります。書斎の北側に設けられた付書院と違棚は、現存最古の座敷飾りの遺構であり、書院造や草庵茶室の源流として、日本建築史上貴重な遺構となっていいます。 |
| 龍安寺 |
| 龍安寺は、京都府京都市右京区に位置し、「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されています。枯山水(かれさんすい)の「石庭」が有名で、周囲は回遊式の庭園になっており、龍安寺の南側には広大な鏡容池があります。春夏秋冬、四季それぞれの色を感じとることができ、多くの観光客が毎年訪れます。 |
| 園城寺の光浄院客殿 |
| 園城寺[おんじょうじ]は、滋賀県大津市にある、天台寺門宗の総本山。創立者は大友与多王です。一般には三井寺[みいでら]として知られています。光浄院客殿は室町時代、山岡氏によって建立されました。一之間の付書院が広縁に張り出す平面構成となっており、伝統的な形式の中に新しい要素を取り入れたものとされています。一之間、二之間には狩野光信を中心とする狩野一門によって描かれた、障壁画が残されています。桃山時代における、書院の代表的建築です。 |
安土・桃山時代
| 安土桃山建築の特徴 |
| 安土桃山時代は、織田信長や豊臣秀吉といった武将が活躍して時代になります。ポルトガルなどの海外文化との交流や、日本人が倭寇として海外へ進出するなど、文化の変化が急速していきます。「安土桃山文化」は、武家や町人文化を中心としながら、国内の文化だけにとどまらず、多彩な文化の影響を取り込んだ時代背景になっています。この時代で最も特徴的かつ有名な建築と言えば、なんと言っても城郭です。 安土桃山時代以前の城は、山や丘などの高いところに作った砦のような形態でした。 山や丘など自然地形を利用して敵の攻撃を防ぐ城は「山城」と呼ばれていました。 しかし安土桃山時代以降は平地に堀や石垣を作り、その中に城を作るようになったのです。織田信長や豊臣秀吉が活躍した時代で、いくつもの文化が誕生しました。 |
| 城郭建築 |
| 「城郭建築」とは、敵の侵攻を阻むための建建物。防御力強化のために頑丈に作られた。城主の武力や権力の象徴として作られたため、美しさや様々な施設(天守、櫓、土蔵、塀等)が必要とされた。戦国時代に城郭建築は著しく発展する。櫓と領主の居住館を一つの建物にまとめて、上下に積み上げた天守が発生し、後に天守閣と呼ばれる高層建築となる。この天守閣の発展は要塞としての山城の形から、城下町を有する平城へと立地的に変化していくことになる。安土桃山時代には、天守閣を中心に、城主の居住施設である御殿などの建造物も、武家の威光や格式を象徴するものとして豪華となっていった。この装飾技術が芸術色彩や意匠感覚にも影響を及ぼすこととなった。 戦国時代後期には鉄砲対策としての強固さや防火性を必要とし、屋根には、瓦などが葺かれるようになり、一層の大型化された城郭建築へと進むとともに、門や塀などの付属建築にも武家風な漆喰仕上げの壁や長屋門などの武家様式の門が発生し、後には武家住宅にも普及していく。 |
| 穴太衆と「穴太衆積み」 |
| 自然にある石を加工しないままに積み上げ、石垣をつくる。 この「野面積(のづらづみ)」という技法を得意とし、戦国時代、日本中を席巻した職人集団がいました。現在の滋賀県大津市坂本 穴太(あのう)地区に暮らしていたことから、「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれる石工(いしく)職人たち。彼らがつくる石垣は非常に堅牢だと評判になり、織田信長が安土城の築城時に穴太衆を召し抱えるなど、全国の城づくりに大きな影響を与えたとされています。ただ無秩序に積まれているように見えて、比重のかけ方や大小の石の組み合わせに秘伝の技が潜んでおり、地震にはめっぽう強く、豪雨に備えて排水をよくする工夫も備わっている。 |
| 石垣 |
| 石垣の加工法は「野面積(のづらづみ)」、「打込接(うちこみはぎ)」、「切込接(きりこみはぎ)」の3種類に分けられます。 |
| 「野面積(のづらづみ)」 |
| 野面積は加工されていない自然石を積み上げていくため、必然的に石同士の間に隙間が生じます。野面積の石垣では石の隙間に「間詰石」と呼ばれる小石を詰めます。石垣は裏側がしっかりと組まれていれば表面が隙間だらけでも崩れません。織豊期に築かれた小谷城(滋賀県)、竹田城(兵庫県)などで野面積の石垣を見ることができます。 |
| 「打込接(うちこみはぎ)」 |
| 6世紀後半になると近世城郭が盛んに造られるようになり、石垣技術は急速に発達します。このころに用いられていたのが「打込接」。石を打ち欠くなどして加工し、石同士の隙間を減らす積み方です。打込接は姫路城(兵庫県)や鳥取城(鳥取県)、熊本城(熊本県)などで見られます。 |
| 「切込接(きりこみはぎ)」 |
| 関ヶ原の戦い後に豊臣家と徳川家の軍事的緊張が高まると、全国で城が多数造られるようになり、石垣技術はさらに発展。この頃になると石同士がピッタリあうように接合面が加工され、石同士の隙間は完全に消滅します。しかし、切込接はコストや技術面の問題であまり普及しなかった。切込接が使われた石垣は、江戸城(東京都)や徳川期大坂城(大阪府)、駿府城(静岡県)、名古屋城(愛知県)など江戸時代に築城・改修された城で見ることができます。 |
| 姫路城 |
| 別名「白鷺城(しらさぎ)」として有名な姫路城も、桃山時代に誕生した建築の一つになります。白い漆喰総塗籠造りの白の城壁、5層7階の大天守と東、西、乾の小天守が渡櫓で連結された連立式天守が観るものを魅了させます。 安土桃山時代の時には、内城・外城として城郭建築が主流になり、姫路城もその一つになります。山の上に建てられる城の建築から、平地での「城」と「城下町」との配置バランスも考慮され、機能性や美感性も劇的に変化した時代になります。姫路城は、奈良の法隆寺と同時に、日本で初の世界文化遺産となっています |
| 妙喜庵(待庵) |
| 妙喜庵(みょうきあん)は京都府乙訓郡大山崎町にあり、国宝である「待庵」があることで有名です。「待庵」は日本最古の茶室であり、千利休が作られたと言われる中では唯一存在している茶室建築になります。構造自体は切妻の柿葺、茶室では珍しい地下窓などを設け、数奇屋造の原形が存在しています。「待庵」以外にも、「妙喜庵書院」「明月堂」などの書院があり、庭を通してそれぞれが古き良き時代を演出してくれます。 |
江戸時代
| 江戸建築の特徴 |
| 近世の日本の建築空間は外国と比べて、最も特色のあるものが多く造られた時代です。中国や西洋の建築に見られるような座標軸にしばられた幾何学的な空間ではなく、左右非対称で自由な配置をしているのが特徴です。茶室、茶庭などで見られるように、動線の屈折、視線の遮断、あるいは部分空間の細分化などが進行しました。回遊式庭園である日本庭園は、進むにつれて新しい景観が展開されるように構成されています。このような空間をつくり出した背景には、無常観という概念が潜んでいたと考えられます。無常観とは、世界を時々刻々と変化してとどまらない流動的な現象としてとらえるものです。その当時の人々の中にそういった精神があったからこそ、人が空間の中をめぐり、色々な光景を送り迎えしながら経験していくような空間を生み出すことになったとも言えます。 |
| 桂離宮 |
| 桂離宮は、江戸時代初期に八條宮智仁親王の別荘として、京の南西の郊外に建てられたものです。最初に古書院、ついで中書院、新御殿と三度の造営で完成しました。二条城が、純粋な書院造の大成をめざしたのに対し、桂離宮の書院は、数寄屋構えをめざしたものでした。 |
| 木割術の発達 |
| 近世は、木割術の発達普及した時代とも言えます。木割とは、柱間[はしらま]を基準に、ほとんどすべての建築各部材の寸法が、その整数比率で定められているものです。この柱間とは、柱の中心から中心の間隔をとる真真制[しんしんせい]でした。木割は、部材の比例を体系化した、いわば設計基準です。書院造は元々木割をもっているのですが、数寄屋造には木割がありません。桂離宮には木割というものが存在していません。一般住宅や寺社建築では、木割が普及しました。1610年には『匠明』という木割書が完成しました。 |
| 畳の普及と流通 |
| 内法制(柱の内がわの寸法を基準とする)が生まれ、長手が六尺三寸、短手が三尺一寸と規格化されていきました。畿内地方の畳の基準寸法は「京間」と称されました。関東地方では、六尺を一間とするため、畳の長手が五尺八寸短手が二尺九寸で、「田舎間」と称されました。畳を中心として柱間寸法が定まり、室の大きさは畳の枚数で表されるようになっていきます(畳割制)。「京間」の六畳に対して、「中京間」は約0.9「田舎間、江戸間」は0.85の広さと、地方によって部屋の広さが異なるようになっていきました。 |
| 数寄屋造 |
| 軽妙な意匠をした建物を公家達が好んで建てました。一般にはこれを数寄屋造りと云います。茶の湯が中世から近世にかけて流行普及して行き、茶のための独自の建築空間である草庵茶室が造られるようになっていきます。数寄屋造は、木割とは全く異なった秩序体系をもっています。 |
| 曼殊院 |
| 曼殊院は、大書院と小書院とが連なり、ともに数寄屋風の軽妙な意匠で構成されています。西本願寺黒書院は、曼殊院と同時代の建築で、明暦三年に完成しています。黒書院は、対面所である白書院の奥に位置し、主室の一の間には正面右手に一間半の床を設け、床柱には面皮柱を使っています。床の左の書院には花頭窓を開け、その左手前からやや離して違棚を設けています。透かし彫りの棚板や、植物をモチーフとした釘隠しの意匠、そして欄間の彫刻など独自の工夫した意匠で構成されています。西本願寺は寺院建築でもあるため、基本的には書院造りであり、その気品を失わず、数寄屋造りの自由で軽妙なしゃれた意匠を随所に取り入れて、日常の風雅な居室として使用されていました。 |
| 桂離宮の特徴 |
| 桂離宮は数奇屋造で、木割とは全く異なった秩序体系をもっています。 桂離宮は、木割からも木材の規格寸法からも解放されています。畳の大きさもまちまちで、柱間の寸法も標準がありません。したがって、建具の寸法もさまざまに作られています。桂離宮は、回遊式の庭園が池を中心に展開しています。古書院、中書院、楽器の間、親御殿と雁行して建てられた書院造りの様式をとっています。茶室として作事された松琴亭は、庭園の中心をなす造形であり、桂離宮の庭園建築のなかでも白眉です。松琴亭の床の間および襖には、薄藍色と白色の加賀奉書紙が大胆な市松模様に貼り付けられています。桂離宮は数寄屋風書院造りの頂点に立つ建築でもあり、数寄屋造りと書院造りとの接点であり、書院の茶から数寄屋としての茶室への先駆でもありました。 |
| 数寄屋風茶室 |
| 茶室の壁を土壁とし、土壁の下地である竹小舞[こまい]を見せた窓を開け、窓に竹の格子を付けるなど、草庵の風情を意匠に取り入れました。草庵茶室は千利休によって確立されました。千利休の手になると伝えられる茶室は、京の南にある下山崎の妙喜庵にある待庵です。二畳の茶室に一畳の次の間と一畳の勝手を設けています。一畳は点前[てまえ]の座で、もう一畳は客の座です。これだけしかなく、茶室としては極小空間と言えます。次の間を相伴客の席に使ったとしても三畳の空間です。高さ二尺六寸、幅二尺三寸六分の躪口[にじりぐち]から茶室に入ります。天井は、床のすぐ前と左手はノネ板(屋根葺用の薄板)に白竹打ち上げ、右手前の躪口を入ってすぐ上は、竹の垂木を見せた化粧屋根裏となっています。化粧屋根裏の部分が、天井の低さをやわらげる工夫となっています。床[とこ]の中は隅柱を隠した室床[むろどこ]とし炉の上の壁も隅の柱を塗り込めて消しています。障子の骨は、竹を用い床の框には三つの節が見え、床柱は、北山丸太です。壁には、大きさや位置が異なる、明かり取りの障子が設けられています。壁面は土壁とし、加賀奉書紙を腰張貼り貼ってあります。襖障子は太鞁張(たいこ)張りにした雲母(きら)の一色刷りの唐紙です。茶室を見通せないよう樹木を配し、飛び石も茶室へ進む客が歩きやすくしかも雅趣があり、さりとて作意の目立たないように配慮しています。路地を外と内に分け、その境に中門または中潜りを置きます。茶室へ入るのを待つ腰掛け、手を清める蹲踞[つくばい]、夜足元を照らす灯篭などさまざまな演出と意匠が施されています。 |
| 江戸時代の武家屋敷 |
| 武家屋敷の玄関は、門から石畳で玄関の式台につらなっています。玄関正面には舞良戸(まいらこ)が嵌められていましたが、武家屋敷の場合は必ずその横桟の横舞良子の幅を三センチ以上の太いものを、七本から九本くらいの粗さにして、重厚で厳格な表現をしています。舞良戸は舞良子の多いもの程高級とし、時には三十五本も入れたものがあります。武家屋敷では、武威を示すため武骨なまでに太い舞良子を粗く配しました。玄関内部の正面は、大きな屋敷では槍床が設けられたが、普通は全部を壁面としました。正面を壁で塞いだのは、屋内を見透かせず防御の意味をもっていました。 座敷の天井は高くして、畳の上には一切物を置かず、万一の場合には戦えるように備えていました。座敷の長押の上には鎗掛けが設けられ、さらに用心のために長押の裏側に、石つぶての小石が隠されたりしました。台所の、板の間や土間が、屋敷の大きさに比較して大きいのは、いざ出陣という時の、支度のための準備に使うためでした。 |
| 二条城 |
| 1601年から三年かけて、家康が築いたものです。現存する二条城は、1626年の後水尾天皇の行幸に備えて、大改造したものです。現在は二室構成となっています。家康当時は上段の間、中段の間、下段の間の三室となっていました。 上段の間の中央に、家康が座って対面の儀式を行ないました。上段の間は、書院造りの基本通りに正面に一間の床脇棚と三間の床の間が並び、広縁の側に付書院、そして右側に帳台構えを設けています。帳台構えの戸襖の後は、納戸となっており、万一のための用心に武者を入れて置くことができ、武者隠しとも言われています。上段の間の書院造りの様式は武家屋敷の座敷には必ず採用されていきました。中段の間は、上段の間より一段下がり、対面の儀式の参列者の中でも、特に官位・階位の高いものが、その順位で座しました。下段の間は、中段の間よりさらに一段下がり、厳格な席次で、列席者や対面者が座しました。下段の間の左手の広縁の前に、能舞台があり、能を見物するためです。 露地は、京や堺の町人たちが屋敷の奥に造った茶室への通路にさまざまの工夫を凝らした事に始まると言われています。茶室だけでなくそのアプローチの外部空間へも緻密な工夫と気配りを行なっていました。 |
明治時代
| 明治建築の特徴 |
| 江戸から明治へと時代が移り変わり行く中、建築様式なども変化を遂げました。明治時代初期の頃には、他国からの技術や工法が伝来し、西洋建築の要素が入り込みます。「擬洋風建築」として確立され、国内での近代建築の発展に大きく影響を与えました 明治時代の建築の特徴は維新以降、江戸時代の長屋や町屋などは違い、ホテルや学校、役所、病院など、新しく公共性能を持った施設が多く求められました。江戸時代までの「木」を主流とした建築方法に、西洋から「石」「煉瓦」の要素が伝わり、新しい建築様式が生まれました。しかし、情報の共有が難しかった時代ということもあり、建築物が各々独特のフォルムを見ようみまねにまね、まとった形で次々と建てられ、個性的な様式とも言われています。 |
| 洋風と擬洋風 |
| 明治時代には、外国人の設計による洋風建築と日本が見よう見まねで作った擬洋風建築が多く建てられました。西洋デザインの中、日本独特の木材や漆喰が使用された擬洋風建築や、当時の洋風建築に用いられた流行のデザインなど、その当時にしか造られることがなかった技術や時代背景があります。 |
| 旧赤坂離宮 |
| 旧赤坂離宮の迎賓館は、鹿鳴館などを設計したお雇い外国人建築家ジョサイア・コンドルの弟子にあたる宮廷建築家「片山東熊」の設計により建設されました。ネオ・バロック式の外観に特徴があり、明治時代の代表的な建築物の一つになります。また、当時では珍しかった「電気」を建築に取り入れ、海外製の自家発電装置を備え照明を可能にしており、暖房装置なども実装している形を実現しています。(日本の気候に対応できず、居住性を問われることも・・・)後に、谷口吉郎の設計によって和風の別館が建設されたり、迎賓館だけに「おもてなし」の原点がここにあるかもしれません。 |
| 東京帝室博物館 |
| 東京帝室博物館は、明治初期、東京帝室博物館、京都帝室博物館、奈良帝室博物館と合わせて建設され、現在は、京都帝室博物館は恩賜京都博物館へ、東京・奈良の2館は、東京国立博物館・奈良国立博物館に変更されています。日本最古の博物館としても有名で、設計は渡辺仁氏のプランが採用されています。東京国立博物館は、日本の木造建築を鉄筋コンクリートへと形式を変え、明治神宮の宝物殿と同じように、和洋折衷建築となっています。鉄筋コンクリート造に和風瓦葺の屋根を載せ、帝冠様式として紹介されることも多く、2001年には「旧東京帝室博物館本館」の名称で重要文化財に指定されていします。 |
| 日本銀行本店 |
| 日本銀行本店は、東京の建築遺産50選に指定されている明治時代の関東の建築物を代表する一つになります。設計計画は辰野金吾氏、1850年に設立されたベルギー国立銀行を参考したことでも有名で、日本銀行本店自体は1896年(明治29年)に完成しました。災害などの教訓を経て、2階3階は煉瓦造石貼りに変更し軽量化を図るなど、安全面にも配慮された歴史があります。1974年に国の重要文化財に指定され、後に別館や新館などが建設されていきます。 |
| 擬洋風建築(ぎようふうけんちく) |
| 明治維新によってそれまでの士農工商の身分制度が取り払われて、欧米化の波が急激に押し寄せた時代です。この変化は建築の分野にも大きな影響を及ぼし、明治時代には特徴的な建築物が出現しました。そのなかでも、擬洋風建築の旧開智学校と洋風建築の法務省旧本館を記載します。擬洋風建築とは、幕末から明治時代初期の日本に於いて、主として近世以来の技術を身につけた大工棟梁によって設計施工された建築である。従来の木造日本建築に西洋建築の特徴的意匠や、時には中国風の要素を混合し、庶民に文明開化の息吹を伝えようと各地に建設された。明治の開始と共に生まれた擬洋風建築は、明治10年前後にピークを迎え明治20年以降に消えており、その時期は文明開化と重なっています。 |
| 法務省旧本館 |
| 法務省旧本館は見覚えのある方も多くいるかもしれません。明治時代を描いた映画やドラマなどでも頻繁にロケ地として選ばれています。それだけ明治時代を代表する有名な建物であるという証なのです。先に紹介した旧開智学校は擬洋風建築ですが、法務省旧本館はドイツ人建築家の設計による本格的な洋風建築物です。別名「赤レンガ棟」とも言われるほど赤レンガをふんだんに使った外観は、ドイツのネオバロック様式を基調としています。空襲により屋根と内装が焼失したため改修されていますが、外壁は奇跡的に大きな被害を免れました。昭和23年からの復旧工事により屋根の形状や材質など変更された部分もありしたが、更なる改修工事によって創建当時の形に復元されています。現在は外観のみ重要文化財の指定を受けており、明治時代の洋風公共建築物として保存され、一般公開もされています。 |
| 旧開智学校 |
| 旧開智学校は長野県松本市にある明治時代初期の建築物です。明治時代には洋風とも和風ともいえない「擬洋風建築」が多く建てられましたが、その代表例として知られています。擬洋風建築とは、洋風建築物の建て方を知らなかった日本の大工が、見よう見まねで建てられたもののことです。洋風に作られた公官庁の建物には外国人の設計士や指導者がいましたが、外国人の手が及ばなかった民家や地方の建物は一般の大工が洋風建築物の写真を見て、あるいは見学に行き洋風建築物に見えるように建物を造ったのです。しかし、本物の洋風建築物を作る技術が普及するに連れて、擬洋風建築は少なくなっていきました。擬洋風建築が造られたのは歴史的に見てもほんの短い期間ですが、旧開智学校はその好例として今も大切に保存され、一般公開もされています。 |
| 京都の明治維新後 |
| 明治維新後、京都は衰退の潮流の中にありましたが、先人たちの積極的な働きによって、古都としてだけではなく、近代都市としての風格も備えていきました。それらを象徴する明治・大正期の近現代建築物が多数存在します。代表的なものとして、片山東熊の設計による煉瓦造の旧帝国京都博物館、外国人の設計による同志社大学のレンガ造の建築物5棟これらはすべて重要文化財となっています。 |
| 京都の明治建築 | |
| 旧帝国京都博物館 | 宮内省内匠寮技師片山東熊の設計により明治28年に建築。フレンチ・ルネサンス様式の煉瓦造が残る。 |
| 同志社礼拝堂 | アメリカ人D.C.グリ-ンの設計により明治19年に建築。煉瓦造のアメリカンゴシック様式で,簡素なデザインが特徴。同志社大学には重要文化財の建築が5棟もあります。 |
| 同志社彰栄館 同志社有終館 | アメリカ人D.C.グリ-ンの設計により明治17年に建築。ゴシック様式で,京都市内に残る煉瓦造建築の最古の遺構。 アメリカ人D.C.グリ-ンの設計により明治20年に建築。 |
| 同志社ハリス理化学館 | イギリス人A.H.ハンセルの設計により明治23年に建築。 |
| 同志社クラ-ク記念館 | ドイツ人R.ゼ-ルの設計で明治26年に建築。ドイツ風のネオ・ゴシック様式で,八角の塔屋を設けています。 |
| 京都文化博物館別館 (旧日本銀行京都支店) | 辰野金吾,長野宇平治の設計により明治39年に建築。煉瓦造2階建で,明治時代中期の洋風建築の典型的な意匠。 |
| 龍谷大学本館 | 設計者は不明,明治12年に建築。木造石貼 2階建で,細部装飾に和風意匠が多く用いられている。 |
| 京都府庁旧本館 | 京都府技師松室重光などの設計により明治37年に建築。ネオ・ルネサンス様式。 煉瓦造2階建。現存する官庁建築としては,最も古い |
大正時代
| 大正建築の特徴 |
| 大正時代は15年と短い期間ではありますが、激動の時代として数々の歴史が記録に記させれています。後の昭和時代も同じく、国内の高度成長期を代表する時代とされ、生活や文化にも様々な変化が起こりました。建築も同じように、鉄筋コンクリート造や鉄骨造など、技術や工法だけでなく材料なども大きく変化を遂げた時代になります。震災により変革を行った大正時代と戦争を乗り越えた昭和時代大正時代は約15年と短い期間ながら、文明・文化が大きく飛躍した時代になります。主要都市の発達や経済の拡張に伴い、都市文化、大衆文化が着目され「大正モダン」と呼ばれる文化を象徴する言葉が誕生しました。 |
| 大正時代「モダン」 |
| 大正時代の「モダン」の始まりは、東洋一の港となっていた神戸港とされ、最新の欧米文化が衛星都市の富裕層が受け入れて、モダンな芸術・文化・生活様式が広まったとされています。大正中期には、洋風生活を取り入れた「文化住宅」が一般向け住宅として多く建設されていきます。しかし、1923年(大正12年)には関東大震災が発生し、首都東京は甚大な損害を受けてしまいます。これを機に、復興計画で江戸時代以来の東京の街を大幅に改変し、道路の整備や区画整理などを行い、電気・水道などのインフラ関係も整備され、近代都市への大変革を遂げたことになります。 |
| 「東京駅」 |
| 大正時代を象徴する建物として「東京駅」が挙げられます。 東京駅は、建築家、辰野金吾が設計し大正3年に竣工しました。 戦災により一部焼失してしまい、創建時は3階建てだった駅舎は、応急処置として2階建て駅舎になり、約60年もの間その姿のままで維持していました。2007年頃から創建当時の3階建ての姿に戻す工事が開始され、特殊な工事を進めながら約5年半の歳月をかけ、東京駅丸の内駅舎は創建当時姿を復元(地下を増築し、免震装置を設置)させ、2014年には、東京駅丸の内駅舎は100周年を迎えました。 |
| 旧帝国ホテル |
| アメリカの建築家、フランク・ロイド・ライトによって設計された旧帝国ホテル。現存はしていませんが、大正時代を代表する建築物として有名です。フランク・ロイド・ライトが徹底した管理体制で臨んだことでも有名で、最終的には金額面などのトラブルがあり、ライトがアメリカへ帰国後に完成を迎えます。平等院鳳凰堂をモチーフとした、鷲が翼を広げたような巨大なホテルは、それぞれのブロックをエキスパンションジョイントで繋ぎ合わせた構造になっており、これで建物全体に柔軟性と独立性をもたせ、一部に倒壊があっても全体には影響を与えない仕組みとされたいました。関東大震災時にも小規模な損傷のみで済み、改めて耐震性や耐火性なども評価されていました。 |
| 京都の大正建築 | |
| 都大学基督教青年会会館 | 米人建築家・W.M.ヴォーリズの初期の作品で、大正2年に建築。 |
| 大谷大学尋源館[旧本館] | 首藤勉と山本八太郎の設計により、大正2年に建築。 |
| 同志社女子大学ジェームズ館 | 武田五一の設計により、大正2年に建築。 |
| 京都大学農学部表門及び門衛所 | 京都帝大建築学科の助教授に着任した森田慶一が、赴任直後に設計した作品で、大正13年に建築。 |
| 京都大学楽友会館 | 森田慶一が、大正14年に建築。 |
大正時代や昭和時代の建築の特徴や様式。東京駅や旧帝国ホテルの誕生
大正・昭和の時代を経て、日本の建築は近代化が進みました。
高度成長期の勢いもあり、技術や人材の能力も飛躍的に向上しています。
平成・冷和へと続く中、古き良き時代の建築に原点があるかもしれません。
昭和戦前
| 江戸時代から明治・大正・昭和という、近代における建物については、その技術や技能を、“日本いにしえ”伝統的工法や伝統的建築材料及び伝統的工匠のサイトで、公開しています。 |
昭和戦後
| 江戸時代から明治・大正・昭和という、近代における建物については、その技術や技能を、“日本いにしえ”伝統的工法や伝統的建築材料及び伝統的工匠のサイトで、公開しています。 |
現代
| 江戸時代から明治・大正・昭和という、近代における建物については、その技術や技能を、“日本いにしえ”伝統的工法や伝統的建築材料及び伝統的工匠のサイトで、公開しています。 |