伝統的工匠

大工

大工(だいく)とは、木造建造物の建築を建たり、修理を行う職人のことです。
古くは建築技術者の職階を示し、木工に限らず各職人を統率する長、
または工事全体の長となる人物をさしていました。
「さしがね」を考案した聖徳太子が組織した職位で、 建築の「木」に関わる職を「右官」、
「土」に関わる職を「左官」と呼んでいました。
古代造寺司においては、建築に限らず工匠の長を「大工」、副を「少工」と呼んでいました。

大工の歴史

飛鳥時代

飛鳥時代に朝鮮から渡来した慧滋(えじ)と慧聡(えそう)が始まりといわれています。
奈良の明日香村に、飛鳥寺(あすかでら)を建設しました。
聖徳太子は、彼らから、建築技術の教えを受け、法隆寺を建立しました。
このことにより、聖徳太子は「大工の神様」といわれています。

右官
建築の「木」に関わる職を「右官」、「土」に関わる職を「左官」と呼んでいました。 建築技術者の職階を示し、木工に限らず各職人を統率する長、又は工事全体の長となる人物をさしていました。
宮大工
宮大工の始まりは、慧滋(えじ)と慧聡(えそう)ということが出来ます。 飛鳥時代に朝鮮から渡来した慧滋(えじ)と慧聡(えそう)が始まりといわれています。奈良の明日香村に、飛鳥寺(あすかでら)を建設しました。聖徳太子は、彼らから、建築技術の教えを受け、法隆寺を建立しました。このことにより、聖徳太子は「大工の神様」といわれています。宮大工の始まりは、慧滋(えじ)と慧聡(えそう)ということが出来ると思います。

奈良時代

大工
「大工」とは、奈良時代の律令に定められた木工寮の最上位者の官名です。 足羽郡人の益田縄手(ますだのなわて)は、大仏殿建立に大工(棟梁)のひとりとして活躍し、連(むらじ)の姓(かばね)を賜りました。

平安時代

大寺社専属の建築職人集団「座」、[木工座」
平安時代になると、建築需要の変化から、朝廷に属さない建築職人が出てきました。建築職人は、「座」、「木工座」という集団を結成しました。 「木工座」は、大工、権大工(引頭)、長(オトナ)、連、の4階層に分かれ、 大工は「大工職」としてこれらの集団を組織しました。大工は世襲が認められ、大寺社は、専属の木工座を持ちました。そして、「座」を統率する、大工の棟梁が生まれました。
棟梁
朝廷の役職としての長、「大工職」「座」「木工座」の長、工事全体の長となる人物のことです。

鎌倉時代

鎌倉時代になると、朝廷の木工寮・修理職に大工が所属して活躍していました。鎌倉中期以降しだいにその数も減少しました。 京都在住の大工のほとんどが両賀茂神社・法成寺・建仁寺等社寺の「座」、「木工座」に所属していました。

大工職
朝廷の役職としての長、「大工職」「座」「木工座」の長、工事全体の長となる人物のことです。

室町時代

大工職の分化
社寺付属の大工座衆の中から、社寺の行事に使用する、神具、道具や家具等を専門に製作する大工が発生し、大工職から分化して、宮大工、桧物師(ひものし)、曲物師、建具職、宮殿師(くうでんし)、指物師などの職種ができました。

安土桃山時代

大工職の独立
戦国時代になると、城郭の造営や城下町の建設という大規模建築が必要となり、社寺付属の大工座衆だけでは、その膨大な工事に対応しきれなくなり、「座」が崩壊しました。このため、社寺の座から離れて、新たな大工の集団を組織させ、その長に集団の統率権を与え、建築労働力の確保に努めました。 これが朝廷、社寺から離脱した棟梁の発生です。

江戸時代

大工の分化が進み、現在のような大工制度が確立されました。

民間職業としての大工
江戸時代頃から、建築に携わる職人を大工と呼び、統率者に対しては、棟梁と呼ぶようになりました。
棟梁
日本建築の屋根の重要部材(棟と梁)は親方が墨付けし、棟上げ式の長でもあることからそう呼ばれました。
大工の職長・親方
木造建築物の采配を行う責任者のことです。

大工の分類

宮大工
宮大工(みやだいく)は、神社・仏閣の建造などを行う大工です。 釘を使わずに接木を行う(引き手・継ぎ手)など、伝統的な技法を伝えています。 寺社を「お宮さん」と言っていたので宮大工といいます。
寺社大工
宮大工といいます。 寺社大工 木造で寺社を造る大工です。 町奉行、寺社奉行という行政上の自治の管轄が違うため町大工と区別されます。
請負大工
一般的な木造住宅における木材・建材の加工・取り付け作業を行う大工です。 宮大工ではないが、木造住宅の墨付け・きざみ・建て方および屋根仕舞・外部造作・内部造作全般を取り仕切ります。
町屋大工
木造で家屋を造る大工です。 古くから日本各地では相互扶助の単位として町(町場)という共同体があり、 江戸時代までは公的な自治単位として町(町場)が存在していました。 町大工は町(町場)の冠婚葬祭の互助活動や消火活動(町火消)、祭礼(山車・神輿の作成)、橋、井戸の屋根、つるべや上水道の枡、木管や下水のどぶ板といった町内生活施設の保守、点検などを、町鳶(とび職)と協力して担ってきました。
数寄屋大工
茶室を造る大工です。 木造で茶室風を取り入れて家屋を造ります(数寄屋造り、書院造りといいます)。 侘び寂び(わび・さび)や花鳥風月といった粋や趣を表現し、実用一辺倒ではない細工や材料を用います。 茶室には欠かせない炉を専門とする炉壇師という職人もいます。
船大工
船大工(ふなだいく)は、木造船(和船、帆掛け舟、屋形船)の建造などを行う大工です。 漁師町では大工と船大工を兼業する者も多く、社会的な役割も町大工に近かったようです。
建具大工
建具大工(たてぐだいく)は、障子・ふすまなどの製作を主とする大工(表具屋、建具屋と呼称することが多い)です。 欄間を作る大工は彫り物大工とも呼ばれ専業になっています。
家具大工
家具大工(かぐだいく)は、家具を作る大工(箪笥職人、家具職人と呼称されることが多い)です。 主に葛籠(竹製ではない)、ちゃぶ台、茶箪笥、箪笥(階段箪笥、薬箪笥)などを造っていました。

石工

石工 (いしく) とは、石材を加工したり組みたてたりする職業のこと。

人類文明の初期からある職業のひとつとして知られる。
自然石は、木材と並び、最古の建材のひとつである。
奈良時代には、石匠が存在していました。
石は頑丈で長持ちはするものの、加工が難しく、手間のかかる建材であったため、土木的分野で使われてきました。
わが国における各時代において、石は、城壁・宗教施設・護岸・道路・橋梁など、
特別重要な分野で使われてきました。
石工は、そういった仕事にかかわる専門的な職業として、古くから確立されていた。

石工の歴史

日本では旧石器時代から、石は銅や鉄と同様に生活用具や武器として重要なものだった。 縄文時代は石鍬(いしぐわ)、石刃(せきじん)、石斧といった生活用具のほか、ひすいが飾り石として用いられたり、環状列石のように宗教的な意味合いで石が使われた。

弥生時代
弥生時代には稲作とともに穂摘み道具として石包丁が用いられる。その後銅器や鉄器が入ってきたことで石器はほとんど利用されなくなるが、
古墳時代
石室や石棺に始まった石工の技術は、水路としても利用されていた幅5mの大溝や木樋と石組みからなる導水施設などの遺構で確認されています。 古墳時代になると弥生時代の墳丘墓が進化して前方後円墳をはじめとする様々な古墳が盛んにつくられ、石の需要が再び高まった。 巨大な石造物づくりの技術は、のちの時代の寺院の基礎や城の石垣づくりに引き継がれることになる。また内部の埋葬施設では棺を入れる石槨(せっかく)や石棺、石製模造品や勾玉といった副葬品が見つかっている。
飛鳥時代
飛鳥時代は、仏教の伝来とともに仏舎利をおさめる石塔を建てることが伝わる。唐や百済、高句麗からの渡来人により、寺院や瓦、石灯籠や庭園づくりも始まった。
奈良時代
「正倉院文書」の中には「石丸子人足」の名がみえて、石匠が存在していました。百済の多くの石工が帰化したことで石工の里となり、日本の石材文化の原点となったと言われている。平安時代は社会的不安の広がりから貴族たちの間で極楽浄土を再現した庭園づくりが流行し、本格的な庭園文化が始まった。
平安時代
平安時代の石匠は大寺に所属していた木工大工の下に属し、石匠としての独立性はありませんでした。
鎌倉時代
鎌倉時代になると、石工が社会的に認められた職業となりました。 石造物には、石大工と称する銘が刻まれるようになり、流派が発生しました。 伊派と呼ばれた石工の流派が活躍していました。
室町時代
室町時代には、石匠の流派は、世襲制をとるようになり、徒弟制度が確立されました。 また、石工細工として、梵字を彫る特技をもった石工も現れました。
安土桃山時代
安土桃山時代に築かれた安土城では、延暦寺の石組みを行っていた石工職人が使われた。 石工の技術は、石橋の建設等が行われる程高くなりました。 熊本城の武者返しと呼ばれる、美しい扇勾配を持つ石垣など、技術の高さを示す建造物が残されています。最初に石垣を導入したのが織田信長の安土城で、比叡山東麓の石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」によって築かれたと言われている。
江戸時代
江戸時代になると、石匠の社会的地位は向上しました。 江戸時代中期になると、大型の像や塔が造立されるようになりました。 石屋ができ、原石を建立地に取りよせて作る方法と、採石場に出向いて作る方法が確立されました。 また、既製品を売る商売的職人が現われました。

左官

百済から仏教建築の技術者が、渡来し、壁塗り技術をもたらし、
彼らの指導の元、飛鳥寺(法興寺)の建設が行われた。
壁塗り工事には、「塗り大工・壁大工・かべだいこう」が携わった。
また、土工・白土師・石灰工と呼ばれる職業の人々が、瓦や石灰の製造に携わった。
これらの人々を、指揮監督する、土工司(つちのたくみのつかさ)という職位が出来ました。
奈良時代の律令制度には、四等官制度が敷かれており、建築仕事を司る木工寮に属(さかん)という役職があり、この属の役人が宮中の修理に壁塗りをしていたことが現在の左官の語源だと言われています。
律令制度を制定された聖徳太子が組織した職位であり、建築の「木」に関わる職を「右官」、「土」に関わる職を「左官」と呼んでいた。

左官の歴史

縄文時代
人々が暮らす竪穴式住居における、土塀が左官工事の始まりです。 土は最も手に入れやすい素材で、その土を生のまま団子状に丸めて積み上げていき土塀を作ったのが左官工事の始まりです。
飛鳥時代
飛鳥時代になると、土工・白土師・石灰工と呼ばれる職業が登場し、土工司(つちのたくみのつかさ)が中心となり、石灰を使った日本最初期の壁工事が行われた。飛鳥寺の造営まで、左官技術による、石灰を使った壁は造られていない。これまでの左官技術は、原始的なもの土壁で、専門的な知識を要する壁工事はなかった。土に関する仕事は、土工司(つちのたくみのつかさ)が中心となり、土工・白土師・石灰と呼ばれる職人が、工壁塗りの他に製瓦や石灰焼きまで行なった。この時代、金具師に曲玉に擬した鉄のヘラを打たせて職具にしたのが塗り師と捏ね師の始まりであります。
壁・白壁の確立 土塁
赤土に石灰を混ぜた土塁を完成させたのが白壁の始まりです。白壁は貝殻や石灰石を焼いた貝灰や石灰(いしばい)に、スサや糊分を加えたもので、これを漆喰と呼んでいる。
奈良時代
奈良時代初期の壁工事の仕上げは、主に白土(白粘土)が上塗りとして用いられたが、土工司が登場し、左官材料や工事施工が管理されるようになると土工司は独立して石灰の製造を司るようになる。「土塗」という職名がありました。
平安時代
平安時代の城郭や貴族の屋敷が形を整えるに従い、左官は「属・さかん」から「目・さかん」と呼ばれるようになり、大目・中目・小目と技量に よって分けられ、左官は番匠(大工棟梁)桧皮工(屋根職)鍛冶につぐ4番目に位置するようになる。
鎌倉時代
鎌倉時代になると屋内の機密性と堅牢性に加え耐火性が要求されるようになる。このころから左官工事を必要とする建築物は、寺院や官衛建物に限らず、左官工事の発展と共に壁の工事は住宅内にも広がる。燃えやすい校倉や板壁の倉庫から、火災に強い土蔵形式に変化し、京都で土倉(どそう)と呼ばれる建物が登場した。
室町時代
茶道の発達に伴い数奇屋建築が登場する。日本独自の建築である茶室は、聚落壁や西京壁、大津壁などの風流、静寂、素朴な、特殊な技術を必要とする左官技術を、生むことになります。
安土・桃山時代
本格的な左官工事は上流階級の建物に限られ、白土や石灰や高価な糊(米粥)を使う建築は、庶民の住居には見られない。この頃の民家は、土肌のまま荒壁同然の仕上げであった。貴人の館でも色壁は見られない。桃山時代に鉄砲が伝来すると築城に大きな変化が生じ、城は石組・塗り壁・瓦葺きとなり、外壁は防火や防弾を目的とした厚い上壁で施工されるようになる。大工・左官・石工の技術を結集した、七重の天守閣を持つ安土城が築城されていた。
江戸時代
江戸時代になると、壁塗・壁屋・左官などが登場し、幕府の文書には壁方の職名も見られる。京都では川砂を使う左官が多いので砂官が語源だという説や左冠、壁屋という、左官の職名が混在している。都市部の発達による、木造家屋が密集する都市おいて、大火災が大きな問題となった。諸大名は、火災に備え大工や左官を「お抱え」という士分格に取り立てて家臣団に組み、「お抱え左官」という身分ができました。
左官工事技術の確立
城郭建築が下火となると、石灰(漆喰)に油を混入する油硴漆喰(ゆがきしっくい)の方法が考案された。壁の彩色は、本格的な左官工事の始まりです。 壁材の粘着性が考慮され、米粥に変わる安価な海藻糊が登場する。これが技術革新の引き金となって日本の左官技術は最高潮を迎える。

壁の種類

土壁
日本家屋の壁。 竹などを格子状に編んだ小舞下地(こまいしたじ)の両面に、藁(わら)を混ぜた土を塗り重ねる土壁。消石灰・麻等の繊維・糊でつくった漆喰が用いられるが、それらの仕上げに欠かせない下地壁で荒壁とも言う。土壁は、柱と柱をつなぐ貫(ぬき)に縄で編み込んだ竹を格子状に並べ、その上から土を塗り重ねて仕上げられた壁です。つまり、下地から仕上げまで土を使った壁が土壁です。その土壁の仕上げに聚楽土を使えば、すなわち聚楽壁となります。灰土(はいつち)、引土(ひきつち)を混ぜれば、大津壁となります。仕上げに漆喰を使えば、漆喰塗壁となります。また、土蔵の外壁や装飾の鏝絵など、技術を芸術的領域にまで昇華させる入江長八等の職人も現れた。
入江長八(いりえちょうはち)
漆喰(しっくい)と鏝(こて)で、絵を描き、あるいは彫塑(ちょうそ)して彩色するという独自の方法を編み出した 「左官の名工」伊豆の長八(本名・入江長八)。文化12年(1815)8月5日、長八は伊豆国松崎村明地(現在の静岡県賀茂郡松崎町)に貧しい農家の長男として生まれました。3歳の頃から菩提寺の浄土真宗・浄感寺で学問を学び、当時住職であった十三世正観上人のもとで12歳の頃まで育てられました。12歳のとき同村の左官棟梁(とうりょう)関仁助のもとに弟子入りします。その当時から手先の器用さで知られておりました。天保4年(1833)19歳のとき江戸へ出て御用絵師である谷文晁の高弟、狩野派の喜多武清から絵を学ぶ一方、彫刻も学びました。 絵画や彫刻技法を漆喰細工に応用し、従来は建物の外観を装飾する目的で漆喰壁に鏝で模様を描いていたものを絵具で彩色して室内観賞用の芸術品に昇華させました。 26歳で江戸日本橋茅場町にあった薬師堂の御拝柱の左右に『昇り竜』と『下り竜』を造り上げて、名工「伊豆の長八」として名を馳せました。
漆喰壁
砂や糊、消石灰などを混ぜて塗りつける土壁です。表面が滑らかで、耐久性や防火性に優れており、アルカリ性のためカビが発生しにくいというメリットもあります。
聚楽
和風建築の代表とも言える壁、「聚楽壁(じゅらくかべ)」。京都で生まれ、古くから茶室や歴史的建造物などに使われてきた伝統的な土壁です。上品に和室を彩ることから、今でも根強い人気があります。本物の聚楽壁は、今はなかなか素材となる土自体が取れない貴重な壁となっています。そもそも聚楽壁とは、京都西陣にある聚楽第跡地付近で産出された「聚楽土」を使った土壁です。この土は非常に良質で、京都西陣のどこにでもある土ではなく、ごく限られた場所からしか見つからない非常に貴重な土と言われています。 その貴重な聚楽土を使い、京都の高い技術を持った左官職人が仕上げる聚楽壁は、実に美しい土肌です。和室の風情やわびさびを静かに彩ります。 聚楽第の土はきめ細かい上質の砂で、うぐいす色やあさぎ色といった落ち着いた色味は、わびさびを重んじる歴史的建造物やお茶室などの壁に使用されています。
聚楽壁はどうやって作られる?
聚楽壁は土壁の一種です。土壁は、土と藁(わら)や麻、細かい紙やスサ、砂、水をこねて作られます。自然以外の材料は使いません。 柱と柱の間に、格子状に縄で竹を編み込んだもので下地を作り、土壁を塗っていきます。土壁は、水や土、砂、藁などしか使っていないのですが、これを寝かせて発酵させます。土壁は、粗塗り、そして中塗り、仕上げの上塗りと、三回塗り重ねて作られていきます。 聚楽壁は一番最後の「仕上げの上塗り専用」の土壁なのです。 塗る厚さは、約2mm。しかも、傷やムラが入ると全部塗り直さないといけない非常に高い技術を伴う作業です。
土壁
土壁は、柱と柱をつなぐ貫(ぬき)に縄で編み込んだ竹を格子状に並べ、その上から土を塗り重ねて仕上げられた壁です。つまり、下地から仕上げまで土を使った壁が土壁で、その土壁の仕上げに聚楽土を使えば、すなわち聚楽壁となります。
「京都の壁」=「京壁」
「仕上げの繊細な土壁=京壁=聚楽壁」というような呼び方で一般的には通っています。京壁は土とみじん砂・みじんスサ、場合によりツノマタノリなどを加え、砂の目が揃うように繊細に仕上げます。最近では繊細に仕上げる京壁仕上げだけでなく、中塗りの土壁の配合で少し荒々しく仕上げる「中塗り仕上げ」が採用されるケースが多くなっています。中塗り仕上げは「中塗り仕舞い」「切り返し仕上げ」と地域によって呼び名が違い、仕上げる方法やルーツがそれぞれ違ったりしています。
大津壁
大津壁とは、土にスサと少量の石灰を混ぜた材料を塗りつけ、鏝で何度も押さえることで緻密な肌に仕上げる土壁のことを言います。
大津壁は滋賀の大津がその名前のルーツになっています。滋賀県大津で採れる「江州白土」という土を使っていたことから、この名で呼ばれるようになりました。その工法が全国に広まったので大津壁と言われるようになりました。大津壁は使用する材料によって泥大津、並大津、大津磨きの3種類に分けられます。大津壁で一番ポピュラーな色は赤。深みのある赤色が特徴です。赤の次の多い黄大津。上品な黄色に仕上がります。
泥大津
泥大津は川や田んぼの土の上澄み(きめの細かい部分)を使用し、それを取り出し石灰を混ぜ、磨き壁にしたものです。大津壁の中では比較的リーズナブルに施工できる壁です。
並大津
並大津は色土を用い、石灰と紙スサを混入し、鏝で押さえた仕上げです。黄色や赤など鮮やかなものが多く、また、磨きこみすぎず、光沢を押さえたマットに仕上るため、上品な印象を与えます。色土を用い、鮮やかで光沢を抑えた上品な仕上がりが魅力です。
大津磨き
大津磨きは、専用の鏝を使って何度も押さえることで、非常に滑らかで艷やかな壁に仕上げます。大津磨きのための専用の鏝が必要になるため、限られた左官職人のみが作り出せる、大津壁の最高峰です。並大津のように色土に石灰と紙スサを混ぜたものを、鏝でしっかりと何度も押さえることで光沢を出す仕上げです。均一に色むらなく同じ光沢で仕上げるには、塗りつけた材料が磨きの出来るわずかな時間の間に鏝を当てていかなければならず、1日1人1㎡~3㎡程度を仕上げるのが精一杯の壁です。
大津壁の基本的な工程は
1.中塗り土などの下地の上に灰土(はいつち)と呼ばれる下塗りを行い、
2.次に引土(ひきつち)という上塗りの土を塗ります。
3.水引きのタイミングを見て磨き鏝を何度も当てて、鏝を当てても状態が変わらなくなったら、
4.ビロードの布を表面に軽く当ててこすり、光沢を出していきます。
5.その後、手のひらで磨く「手ごすり」を行います。
錆壁
鉄粉や古釘の煮出し汁などを配合した土壁です。塗ってしばらくすると、鉄分が錆びて褐色の斑点が浮かび上がり、独特の雰囲気を演出。時間の流れとともに味わい深くなる壁を楽しむことができます。

屋根葺師

屋根葺師とは、屋根を葺く人のことで、屋根の種類により、専門分野に分かれる。
屋根を葺くための専門的技術を持った人のこと。様々な屋根材とそれを葺く技術を掲載させて戴きます。

屋根葺師の歴史

縄文時代
茅葺は世界各地でもっとも原初的な屋根とされ、日本でも縄文時代には茅を用いた屋根だけの住居が作られていたと考えられている。
弥生時代
弥生時代以前の遺跡(登呂遺跡など)で復元される竪穴式住居などの屋根は通常茅葺とされる。 竪穴式住居の茅はススキの別名であるが、チガヤなどの総称でもある。
瓦の起源
瓦の起源ははっきりとしていなく、紀元前900年〜800年頃、中国の周の時代には、屋根瓦として使われていました。日本には588年頃に朝鮮半島から、4名の瓦作りの技術者(麻奈文奴、陽貴文、陵貴文、昔麻帝弥)によって伝えられました。
飛鳥時代から白鳳・奈良時代
蘇我馬子の「法興寺」を建てるために、瓦作りの技術者たちは、僧や寺大工らとともに渡来しました。本格的な伽藍(寺院としての建造物)をもった我が国最初の仏教寺院とのことです。この法興寺の屋根瓦は、平城遷都に伴い今の「元興寺」(奈良)の屋根として現存しています。これが「日本最古」の瓦と言われています。
平安・鎌倉・室町時代
戦乱の平安時代に、瓦の使用は減少しました。しかし鎌倉時代には宗教活動が再燃し、寺の建立や修造も増えていきました。この時代の瓦は強固で大ぶりなものが多くなります。「東大寺」復興のために作られた瓦は、軒丸瓦(屋根の下端にある丸い瓦)の直径が20センチ、軒平瓦(軒丸瓦と軒丸瓦の間にある平らな瓦)の幅は33センチでした。
桃山時代から江戸時代
これまで見てきたように、瓦屋根の建造物といえば寺院かお城であって、庶民の家に瓦が用いられることはほとんどありませんでした。この時期に画期的な発明がされました。桟瓦(さんがわら)です。近江国大津(現在の滋賀県大津市)の瓦工で、三井寺の御用達を務めていた西村半兵衛が考案しました。それまでの屋根瓦は、別々に作られた丸瓦と平瓦を交互に配置していました。よって非常に重くなり、建物自体の構造がしっかりしていないと支えられません。一方、桟瓦は薄型(軽量)で、断面から見てゆるやかなS字に成形されたものでした。隣の瓦とかみ合わせていくため、丸瓦を必要としません。よって重量だけでなく製造や施工のコストも抑えることができるため、価格が低くなり一般家屋への瓦屋根の普及を一気に進めることになったようです。

茅葺師

茅の歴史

日本で現存最古の茅葺屋根民家
日本で現存最古の茅葺屋根民家は兵庫県神戸市にある箱木家住宅(国の重要文化財)で、室町時代に建てられた。
縄文時代
茅葺は世界各地でもっとも原初的な屋根とされいます。日本でも茅葺き屋根の歴史は古く、その起源は人間の生活形態が定住になった縄文時代といわれています。 この時代の竪穴式(たてあなしき)住居には、打石器によって茅を刈ったり木を切ったりして築かれた茅葺き屋根が用いられました。
弥生時代
弥生時代以前の遺跡(登呂遺跡など)で復元される竪穴式住居などの屋根は通常茅葺とされる。竪穴式住居の茅はススキの別名であるが、チガヤなどの総称でもある。
茅葺き屋根の形と材料
屋根の形主なものは寄棟造り(よせむねづくり)、切妻造り(きりづまづくり)、入母屋造り(いりもやづくり)
屋根ふき材料岐阜以東ではアシ、ススキ、チガヤ。近畿以西では麦藁。
屋根を葺く時期北日本では降雪がはじまる直前の10月~11月、関東以西の太平洋側で11月~12月
茅の葺き方丸太で小屋組をし、竹で屋中(やなか)と呼ばれる横木を取り付ける。 取り付けは縄ののみで行われてた。現在では針金も用いられます。 小屋組ができると、茅を葺きます。 軒先から葺きはじめ、軒付けという作業を行い、茅を押鉾(オシホコ)という竹で隙間なく締め付けて並べます。 軒付けののち、茅を並べて竹で押さえ縄で締める平葺きをします。 この時長さの異なる茅を4層にして重ねます。これを1鉾といいます。 1鉾茅を葺くとそこへアルキボウと呼ばれる足場を取り付けて1段上に上がり同じ作業を繰り返します。 屋根の頂上まで茅を葺いたら、水が入らないように杉皮で蓋をして竹や縄などで入念に締め付け、茅葺き屋根が完成します。
茅葺
現在、茅葺き屋根が存在する地域において、茅葺き替え技術を持っている人が中心に葺き変えが行われています。茅葺き屋根は、最後にハサミで形を整える事から、『刈り屋根→刈屋→カヤ』となったという説もあります。材料となる「茅」、しかし、茅という植物は存在しません。茅とは、「ススキ、チガヤ、スゲなど」の総称です。茅を育てておく場所を茅場といいます。茅は、何年も貯蔵して貯えた茅は、乾燥して、折れ易く、しなやかさが失われます。 これを防ぎ、しなやかさを失せさせないため、冬本番前に刈り取ります。茅葺き屋根の材料は身近にあり、一度、屋根を葺くと20-30年ほど保つことができます。1950年頃まで、日本各地に多く残っていました。
茅葺とは
現在、茅葺き屋根が存在する地域において、茅葺き替え技術を持っている人が中心に葺き変えが行われています。 茅葺き屋根は、最後にハサミで形を整える事から、『刈り屋根→刈屋→カヤ』となったという説もあります。
茅と茅場
材料となる「茅」、しかし、茅という植物は存在しません。茅とは、「ススキ、チガヤ、スゲなど」の総称です。茅を育てておく場所を茅場といいます。茅は、何年も貯蔵して貯えた茅は、乾燥して、折れ易く、しなやかさが失われます。これを防ぎ、しなやかさを失せさせないため、冬本番前に刈り取ります。茅葺き屋根の材料は身近にあり、一度、屋根を葺くと20-30年ほど保つことができます。

伝統工匠

屋根葺師屋根葺師の歴史茅葺師板葺き師檜皮葺師瓦葺師
板葺き師
板葺の歴史
板葺の歴史は茅葺に次いで古い。
古墳時代
古墳時代から屋根材として使用されはじめたと思われる。法隆寺五重塔の屋根にも使用されている。
平安時代
平安時代初期には、道具の進化もあり、より薄い板を用いる手法が開発され、最も薄い板を用いるこけら葺が使用されはじめる。
江戸時代
江戸時代までは栩葺・木賊葺も社寺建築に使用されていたが、板が厚く直線に近い屋根しか葺くことができないことから、薄板で自在性が高いこけら葺へと次第に移っていった。
板葺き師・こけら葺き師
わが国固有の屋根葺き工法であり、鎌倉時代中期以前の屋根工法は、板葺きが主流でした。 こけら葺とは、屋根葺工法で、木材の薄板を用いて施工する。 板葺(いたぶき)の代名詞にも使われる。 板材を使用して屋根葺き技術や材料製作技術を持った人を、板葺き師、こけら葺き師という。 檜皮葺き師、柿葺き師は全国に100余人。
板材の種類
「こけら」は「こけらおとし」の「こけら」同様、木片・木屑の意味。 こけら板とは、最も薄い板で、板厚は2~3ミリメートル、大きさ30cm×9cm位で、こけら板の材料はスギ、サワラ、ヒノキなどの筋目がよく通って削ぎやすく、水に強い材木で、赤み部分が使用されています。
こけら葺の材料
木賊葺(とくさぶき)
こけら板よりも厚い板(木賊板)、板厚は4~7ミリメートルを用いる。
栩葺(とちぶき)
こけら板よりも厚い板(木賊板)、板厚は4~7ミリメートルを用いる。トクサ(木賊)が板材ではない。
大和葺(やまとぶき)
法隆寺金堂の裳階だけに見られる厚い木片を互い違いに重ねた板屋根のこと。
檜皮葺師(ひわだぶきし)
檜皮(ひわだ)葺きや柿(こけら)葺きは、わが国固有の屋根葺き工法として社仏建築に多く用いられてきた。 檜皮葺(ひわだぶき)とは、屋根葺手法の一つで、ヒノキの樹皮を用いて施工する。 日本古来から伝わる伝統的手法で、世界に類を見ない日本独自の屋根工法である。 多くの文化財の屋根で檜皮葺を見ることができる。 檜皮葺きの建築物は、全国に2000棟以上現存しており、そのうちの712棟が国宝、重要文化財に指定されている。 檜皮葺き師、柿葺き師は全国に100余人。
檜皮葺の歴史
奈良時代
668年に崇福寺(廃寺)諸堂が檜皮で葺かれていた記録が最古の事例。 奈良時代には平城宮の建物にも檜皮葺が多く用いられていたと伝えられる。 主要な建物が瓦葺だったのに対し、檜皮葺は付属的な建物の屋根に用いられた。
平安時代
その後、こけら葺・茅葺・瓦葺など屋根葺工法の中で最も格式の高い技法として、貴族の住居や寺社仏閣に使用されるようになった。現在残る技法は、平安時代以降のものと考えられている。
原皮師(もとかわし)
檜皮葺きの材料を採取する人。現在、原皮師は全国に20人ほどしかいない。 樹齢70年以上の充分な樹径のあるヒノキの立ち木から剥いた皮を成型した檜皮を用いる。 檜皮採取の職人を原皮師(もとかわし)と呼ぶ。
瓦葺師
瓦葺の歴史
奈良時代
大陸から伝わった陶器製の本瓦(平・丸瓦を組み合わせるもの)を用いた本瓦葺が主流で、寺院の屋根に使われてきた。
安土桃山時代
安土桃山時代以降は城、大名屋敷、土蔵に使われた。
江戸時代
1720年(享保5年)幕府の政令により防火構造として、土蔵造り、塗屋、瓦屋根の普及がなされ、民家に導入された。 1792年(寛政4年)政令により焼跡には瓦屋根以外の建物を建てることを禁じています。 茅葺屋根などに比べ耐水性・耐火性に優れるため、梅雨があり台風の多い日本で定着した。
瓦屋根葺き師
瓦は、奈良時代およそ六世紀の末に、仏教建築と共に伝えられた。 古代寺院の建築にあたっては大工が、その他の仕事と共に瓦造りも行った。 この時代の瓦は本葺瓦(工法)といいます。 その後1674年(延宝2年)三井寺の西村半兵衛が、現在の瓦の元となる桟瓦の発明をしました。 西村半兵衛が、瓦屋根葺き師の始まりと言えます。 本葺瓦での重量が建物にかなりの影響を与えることを考え、軽量化を願ってこの工法を発明しました。 その後、改良に改良を重ねて現在の和型瓦となりました。

金物師

金物師とは、建築金物、扉の蝶番や飾り金具を作る職人のことです。
金物師は、木の継ぎ目や木口の木材が割れやすい所の補強の為に金具を打っていました。
それだけでは、味気ないと金具に模様を入れて作り始めたのが金物師です。

金物師の歴史

奈良時代
茅葺は世界各地でもっとも原初的な屋根とされ、日本でも縄文時代には茅を用いた屋根だけの住居が 作られていたと考えられている。
平安時代
平安京造営に於いても、多くの飾り金物、建築金物が使われました。 また、仏教や神道をはじめとする様々な宗教活動も盛んになり、においても、多くの宗教用具や神仏具金物が製作されました。
鎌倉時代
「炉」を備え、原料から素材を作る「精錬鍛冶」と製品を作るためにおこなう「鍛錬鍛冶」がおこなわれていた。 鉄の精錬技術が確立され鍛冶職という、専門職が発生し、刀や釘等が製造されていた。
室町時代
室町時代になると、鑄師による銅鐘が、造られました。 京都市の中心部「釜座」で、鑄師が集団で工房をかまえていました。 この頃、中国から、異質の色合いをもつ花瓶、香炉や燭台などが伝わり、わが国の金工に影響を及ぼすこととなりました。
戦国時代
製造する鉄製品に合わせて専門の鍛冶屋が出来る。 「刀鍛冶」や「鉄砲鍛冶」は、武器の生産を専門に行う職人です。 多くの場合、職人は、城下の一角に集められ、大名や武士の注文に応じた武器を製造していました。 その名残として、各地に「鍛冶町」の地名が残っています。 また、包丁や農具、漁具、鉈、茶道具などを手がける鍛冶屋は「野鍛冶」と呼ばれました。
桃山時代
桃山時代になると、京都の釜座には鋳物師数家が軒を連ね、鍋や釜など日常用品とともに鏡なども作られました。 また、この時代には武器や甲冑、刀剣などの装飾がめざましく発達し、その技術は江戸時代へと伝承されていきました。
江戸時代
江戸時代になると、生活日常用品や大工道具、農工具を作る金物鍛冶(かじ)が多く存在しました。 製作する金物の種類により、専門の職人が作り出されました。 鍛冶屋も作るものによって、「前挽鍛冶」と「スキ鍛冶」と「野道具鍛冶」と区別されました。 「野道具鍛冶」の中から、鉋・鑿・庖丁などを専門に作る「鍛冶屋」と区別されました。 様々な専門職を各地に誕生させました。 この時代、金物問屋や仲買問屋が発生し、現代のような流通形態が出来ました。

金属工芸の種類

鋳金
鋳金はいものとよばれ、溶解した金属を鋳型に流し込んで造形する技法で、主として仏像や梵鐘、茶道具、美術工芸品などに用いられる。
鍛金
鍛金はうちものともよばれ、金属を自在に延ばし、縮め、立体的に造形する。
彫金
彫金は別名ほりものといわれ、金属板に模様を彫ったり、浮彫にしたりする技法である。
錺金(かざりかなもの)
錺金は、建物や仏具などの装飾に使われている金物のことで、錺金物といいます。
象嵌
象嵌は、金属に金や銀、赤銅などをはめ込んで模様を表現する技法を指す。
七宝。
七宝は、金属の素地にガラス質の釉薬を焼きつけて装飾する技法で、釉薬の種類によりさまざまな発色をするのが特徴である。

指物師

指物師とは、家具職人のことをいい、箱、長持、机、椅子、たんす等、板材をさし合わせて組み立てる職人のことです。
指物大工、箱大工ともいいます。
指物(さしもの)とは、釘などの接合道具を使わずに、木と木を組み合わせて作られた家具、建具、調度品などの伝統工芸品の総称の事です。また、その技法のことを指す場合もあります。「物指し」を用いて細工するから「指物」と呼ばれ、細工、加工、組み立て、を行う職人を「指物師」といいます。

指物師の歴史

奈良時代
日本における、木製品の歴史は古く、奈良時代の遣唐使の時代にまで遡ります。遣唐使が持ち帰った木製品の中に、日本には無い珍しい木を使った木製品などがありました。
この木を唐の木(トウノ木・カラ木)と呼んだのが、始まりと言われています。また、唐木を加工する職人も、帰化人などに限られていました。現在では、正倉院の遺品により知ることができます。細密彫刻を施した儀礼用の物差し、琵琶などが 正倉院に遺されています。このように、指物技術は寺院建築の一部、又は、製品の部分的装飾に用いた程度でした。
平安時代
京都の宮廷が使用する儀礼用の物差しや箱物類、寝殿造りの一部や装飾等に、用いられていました。当時、儀礼用の物差しや箱物類等は、大工職の手で作られていました。
大工職
「大工」とは、奈良時代の律令に定められた木工寮の最上位者の官名です。平安時代になると、建築需要の変化から、朝廷に属さない建築職人が出てきました。やがて、建築職人は、「座」、「木工座」という集団を結成しました。「木工座」は、大工、権大工(引頭)、長(オトナ)、連、の4階層に分かれ、大工は「大工職」としてこれらの集団を組織しました。大工は世襲が認められ、大寺社は、専属の木工座を持ちました。そして、「座」を統率する、大工の棟梁が生まれました。
室町時代
専門の指物師がこの頃に生まれました。
室町時代以降、武家生活の中で、棚類、箪笥類、机類の調度品が増え、また、茶の湯の発達に伴い箱物類など指物への需要が増えてからの事と言われています。
こうした指物師は、建具職、宮殿師(くうでんし)、宮大工、桧物師(ひものし)、曲物師などともに大工職から分化していったものでした。
安土桃山時代
茶道の勃興と相俟って唐木の使われる量も増し、書院造りの一部や座敷の一部は勿論、茶華道具の一部にも使われるようになり、人々に唐木が認められて、その製品が愛玩されるようになってきました。
江戸時代
将軍家、大名家などの武家用、徳川中期以降台頭してきた商人用、そして江戸歌舞伎役者用(梨園指物)として多く作られ、今日に至っています。桑、欅、桐など木目のきれいな原材料を生かし、外からは見えないところほど技術を駆使し、金釘打を施したりしないで作られる江戸指物には、職人の心意気が感じられます。 江戸指物は江戸で発展したため、武家や町人・商人が用いる事が多かったようです。
そのため過剰な美しさは廃して、淡泊な木目に渋味をもつ漆塗りを施し、素材の木目の美しさを活かしている事を特徴とします。

塗師

漆を塗る職人。 塗師(ぬし)とは、江戸時代以前から用いられた漆職人の総称です。漆塗りの職種では、分業制が取られており、塗師(ぬし)とは、生地師(きぢし)や蒔絵師(まきえし)などに対して特に漆を塗る職工に用いられます。

塗の歴史

縄文時代
大陸より伝えられる漆器は、日本において縄文時代にはすでに広まっており、その種類も生活用具だけでなく、仏具、武器、文房具など多岐に及んでいました。
奈良時代
漆地に金粉を散りばめたように見える、末金ろ(蒔絵)が生まれました。
平安時代
末金ろ(蒔絵)の技法は平安時代へと受け継がれ、発展して、やがて研出蒔絵や平蒔絵が完成されました。
蒔絵
漆で文様を描き、金・銀・スズ・色粉などを付着させた漆工芸のことです。技法上から研ぎ出し蒔絵・平蒔絵・高蒔絵に大別されます。絵以外の地の装飾としては、梨子地(なしじ)・塵地(ちりじ)・平目地・沃懸(いかけ)地などがあります。奈良時代に始まり平安時代に完成された漆工芸の代表技法です。
蒔絵師
蒔絵師とは、蒔絵の技術をもって、漆工芸品を作る職人のことです。
鎌倉時代
鎌倉時代になると、高蒔絵、平目地(平目粉)、沃懸地、付描き、銀平文の併用技法等が確立され、蒔絵が完成されました。また、螺鈿技法が完成しました。
室町時代
室町時代になると、加飾技法や塗漆技法においては、肉合研出蒔絵、梨子地、針描、梨子地粉なぞ、様々な技法表現により、複雑化された蒔絵を生み出しました。また、時代を反映して、唐絵の影響を受けた文様が用いられました。この頃には寺院や貴族などが、特定の蒔絵師をかかえるようになります。
安土桃山時代
桃山時代は、新しい技法の興隆期であり、加飾技法や塗漆技法においては、 絵梨子地、片身替わり、秋草文様(高台寺蒔絵)が生まれ、近世意匠が確立されました。また、南蛮蒔絵、葡萄唐草、や李朝螺鈿の影響を受け、薄貝の螺鈿が生まれました。
密陀絵
密陀絵には、白、中間色の表現が用いられるようになり、色漆絵が生まれました。黄漆が作られるようになりました。
安土桃山時代の京漆器は、新しく台頭してきた武士階級の趣味や好みを色濃く反映したものとなり、大変華麗なものでありました。
江戸時代
江戸時代に入ると、こうした豪華さ華麗さの中にも繊細で緻密な趣を持つものが目立つようになります。嵯峨蒔絵や光悦などの作品を生み出しました。

竹工芸師

日本には600種余りの竹があります。昔から、竹はさまざまな形で私たちの生活の中で使われてきました。手に入りやすく、削る・曲げるといた加工がしやすいため、材料として重宝されてきました。中が空洞で、節があるという特徴的な形もまた、竹がいろいろな形で利用されてきた理由のひとつです。同質で同じ長さの棒状のものを量産しやすく、薄く削ると適度な弾力を得られます。そのため、細工や工芸の材料によく使われてきたのです。ここでは、私たちの文化と深く関わってきた竹の工芸品の数々を見てみることにします。

竹の歴史

縄文時代
竹工芸たけこうげい の歴史は古く、縄文時代にまでさかのぼり、底面に網代 (あじろ) の痕がついた縄文式土器が発掘されています。
奈良時代
正倉院には、竹を用いた楽器をはじめ、箱や華籠その他多数の遺品が保存されています。「法隆寺の竹厨子 (たけずし) 」は、奈良時代の経巻を納めた竹製の厨子で国宝に指定されている。すだれの歴史は、少なくとも奈良時代にまでさかのぼります。すだれは、日本に現存する最古の和歌集である万葉集にも詠まれています。
平安時代
平安時代になると、室内装飾品や建材としても随所に使われるようになりました。「御翠簾(みす)」とよばれ、貴族文化における寝殿造りのすまいの仕切りとして欠かせない調度品でした。また同時に、矢や鞭などの武器、農耕・漁猟の道具など、日常生活の様々な部分まで広がってゆきます。 京都の竹工芸品は平安時代(8末~12世紀)にはじまったもので、茶道具や華道用具そして室内装飾品など幅広い用途に用いられています。 いずれも茶の湯文化と深い関わりをもち、江戸時代中期頃になると、大竹を輪切にした花器や柄杓などの道具を作る職人が京極の二条や四条周辺に多く住んでいました。
鎌倉時代から室町時代
鎌倉時代の終わり頃から室町時代にかけて、茶の湯文化が広まると、茶道具を製作するために欠かせぬ素材として、竹はますます重宝されるようになりました。
桃山時代から江戸時代
桃山時代以降、技術的に、また産業としても大きな発展を遂げました。 江戸時代初期には、竹細工、柄杓師が活躍し、将軍家の御用をつとめるほどになりました。
簾(すだれ)
すだれの歴史は、少なくとも奈良時代にまでさかのぼります。 すだれは、日本に現存する最古の和歌集である万葉集にも詠まれた風情ある調度品です。 平安時代には「御翠簾(みす)」とよばれ、貴族文化における寝殿造りのすまいの仕切りとして欠かせない調度品でした。簾は、古い歴史を持つ日本を代表する道具の一つです。
“簾”という言葉は、7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた日本最古の和歌集で登場しています。平安時代には、多くの貴族が使用しており、当時の建築構造では現在のドアや引き戸のような仕切りがなかったため、簾の原形である御簾(みす・ぎょれん)を使用していました。
当時使用されていた御簾の多くは、現在主流となっている簾に布地で出来た縁をつけ、房を垂らしたものでした。高級品であったことから貴族の間で使用されるようになり、竹や葦(よし)のみで作られるようになってから一般市民へも浸透したと言われています。
1.原竹2.竹切り3.外皮取り4.大割り5.中割り6.小割り
7.すがづくり8.先付け9.ひご板通し10.編み11.仕上げ 

7.すがづくり(4,5本ずつ糸でくくる)8.先付け(小刃で先を細く削る)9.ひご板通し(金属板にあけた穴に竹を通して削りひごをつくる)

11.仕上げ(縁・小道具付け)

籠編み
タケがまだ日本列島に入ってきていない縄文時代、縄文人は、ワラビの繊維を使って、カゴを作っていた可能性が大きいといいます。 別府竹細工は、景行天皇が九州熊そ征伐の帰りに別府に立ち寄った際、お供の膳伴(台所方)が、良質の竹の多いことを発見して、メゴ(茶碗かご)を作ったことがはじまりと言い伝えられています。 室町時代には、木地師(木をくりぬいたり、ロクロで挽いて椀や盆などを作る職人)が塩桶から竹を用いた塩かごを発案したことから、行商用のかごが販売のために生産されるようになったともいわれています。 花を生けるための竹籠が広まったのは江戸時代中頃のこと。 当時流行した煎茶の席で唐物と呼ばれる中国様式の籠が飾られました。 隙間なく編み込まれた格調の高い中国風の作品が京や大阪を中心に盛んに作られました。 明治に入ると日本では独自のデザインによる竹籠が生まれます。
1.原竹2.大割り3.中割り4.小割り5.へぎ皮を取る6.巾決め
7.厚みそろえ8.面取り9.編組10.縁かがり11.仕上げ 

5.へぎ(竹皮と身を分ける)9.編組(底から編みあげていく)11.仕上げ(着色・手付けなど)

暮らしと竹工芸

京都は竹の産地として風土条件に恵まれていることから竹の都としても知られており、茶道具や花器など洗練された竹工芸の技術が伝承されています。 近年、生活にゆとりや潤いを求める傾向に伴い竹製品への関心が高まり、茶道・華道の道具類はもちろん、食器や家具調度品、照明器具などの分野にも活用されています。

1.茶道と竹
日本で身近に生えている竹は、昔から生活用具として使われており、茶道文化や華道文化にも大きな影響を与えました。 茶道具としては、花入れ、香合、水指、茶杓、箸置き、茶筅(ちゃせん)、柄杓などがあります。千利休の竹花入「園城寺」は、千利休が小田原攻めに同行した際に、伊豆韮山 (にらやま) で採った竹に一重の切り込みを入れたもの。
「茶道の歴史」
中国から留学僧によって伝えられた初期の頃のお茶は、薬として飲まれていました。室町時代中期に村田珠光という人が礼法・作法を備えた茶湯の道を確立させ、民衆に茶の湯を広め精神性を求めました。そして、禅とのふれあいの中で「茶禅一味」の精神が生まれました。 さらに、千利休が「わび」と言う美の境地を切り開き、「和敬清寂」の理念を確立しました。「和敬」とは人間同士はもちろん、自然界すべてのものに対する思いやりと尊敬を意味し、「清寂」とは心の静けさつまり清らかな心、澄み切った心のことです。
2.華道と竹
華道文化の中でも、竹は使われてきました。華道具としては、花をさしておく尺八切、吊船、置き舟、蝉籠などが竹で作られました。
「華道の歴史」
「いけばな」は仏前供養の花から発展しました。室町時代(14世紀~16世紀)になると能や茶の湯などの文化が盛んになり、「書院造」と呼ばれる建築様式が生まれました。書院造りの一要素である「床の間」で、古い形式の花が飾られるようになりました。その後、茶の湯の隆盛に伴い花を抛入れる(なげいれる)手法が確立され、現代に発展してきました。
3.日本庭園と竹
庭園の中でも竹はさまざまに利用されてきました。垣根、縁台の材料として、またししおどしの一部として使われ、庭園には欠かせない存在でした。
「日本庭園の歴史」
山肌などに露出している岩や石を神格化して崇拝し、それらを円形や楕円形に配置し、海に例えて池を作り、池の中に島を作り、神を奉ることから始まりました。そうすることで庭に宗教観や哲学観を表現しました。
4.建築材料
建築材料として竹は、建築材料としても様々に利用されてきました。和室造作材としては、床柱、落とし掛、棹縁、腰板などに使われてきました。 造庭材としては、光悦竹掛、竹塀、ししおどしなどに使われてきました。竹には節がありその間隔は一定ではありません。その節をいかに綺麗に揃えるかということは、建築材料として重要なことでした。京都に住む裕福な人たちは、装飾によってきらびやかに家を飾るのではなく、良い竹を使って、しかも節が不揃いにならないようにすることにお金をかけました。わび・さびの精神でもって作られた空間は、人々の心を惹きつけ、満たしてきたに違いありません。
いぬやらい(犬矢来)
通りに面した壁を、雨水の跳ね返りなどの汚れから保護するために置かれています。木製・竹製・金属製などがあり色やデザインなど様々なものがあります。
駒寄せ
駒寄せは、本来は外壁を泥やはねによる汚れから守るために設けられたものです。美しい町並みと調和し、風情と潤いを与えてくれます。

京銘竹

京銘竹とは、京都府伝統的工芸品指定要網の規定により京都府伝統工芸品に指定された伝統的な工芸品です。 その伝統工芸品には、白竹(晒竹)、胡麻竹(錆竹)、図面角竹、亀甲竹があります。

白竹
建築用、茶華道具、美術工芸品に欠かせない銘竹です。炭火やガスなどの火力であぶり、油抜き(竹をじっくり温め内部から水分と老廃物を取り出す)を行い、天日で乾燥させます。この作業を「晒し」と呼び、晒すことにより光沢や靭性が増します。また、生産性を向上させるために、湯抜き(熱湯を用いて行う油抜き)という方法がとられることもあります。
胡麻竹
建築用、扇子立て、花器等、親しみやすい工芸品に用いられます。竹に梯子をかけ、鋸で竹の先端や枝を全て切断して、立ち枯れさせます。そのまま暫く放置すると、竹の表面にカビが寄生して黒い小さい斑点が出てきます。この黒い斑点が胡麻を撒いたように見えるため、胡麻竹と言います。
図面角竹
飾り柱、花器、椅子、床机など風情ある家具に用いられます。 地表に2cm~40cmぐらい出た筍の四方を板枠で囲い、筍の成長に合わせ板枠も伸ばしていきます。 竹が伸びきったところで板枠をはずし、竹の表面が柔らかいうちに図面付け作業を行います。 図面付け作業に用いられる薬剤は、希硫酸に粘土を混ぜたものを使用します。
亀甲竹
高級な趣味性を追求する建築装飾、工芸品に用いられます。孟宗竹の芽子が突然変異を起こしたものです。 稈(かん・中空の茎)の部分がジグザグしていてまるで亀の甲羅のように見えることから亀甲竹と名付けられましたが、仏様の顔にも似ていることから仏面竹とも言われています。

竹の製作と性質

竹材の製作
伐採は冬場に行います。伐採したばかりの水分の多い竹は約5mに裁断し、約60日間倉庫で陰干しします。その後、反った竹のくせ直しをします。 くせ直しをした青竹の表面を水洗いし、汚れを落とします。
白竹にする場合、炭火やプロパンガスであぶり、しばらくして竹の表面に油がにじみ出てくると、乾いた布でぬぐいとります。その後、太陽のもとに約10日間天日干します。
伐採(冬場)→切断→陰干し→くせ直し→水洗い→あぶり→油のぬぐいとり→日にさらす
晒竹にする場合、お湯とカセイソーダで油抜きをし、くせ直しをしてから晒します。
竹の性質
堅牢性、強靭性竹は破損しにくく、ひび割れも起こりにくい性格をもっています。
低伸縮性吸水膨張率及び加熱乾燥収縮率が非常に小さいです。そのため、古来より物差しや計算尺に使用されてきました。 精度が必要な建材として最適です。
弾力性、柔軟性木材に比べて弾力性、柔軟性に優れています。
抗菌性、脱臭性抗菌性があり、鮮度を保つ能力に優れています。そのため、昔から竹の水筒が使われたり、筍の皮でおにぎりを包んだりすることに使われてきました。また多孔質の構造から臭いを吸収するという性質を持ち、乾留処理された竹は脱臭効果がより高くなります。
熱伝導性熱伝導性に優れ、床暖房の表面材に竹を用いると最適です。 熱による伸縮及び反りが非常に少ないのも竹の優れた性質です。

庭師

庭師(にわし)とは、庭を造る人のこと。
古くは役石(やくいし)、立石僧(たていしそう)などとも呼ばれた。
庭石、樹木や池、水路から芝などを含めて、庭を一つの造形空間として設計施工、製作する人で、樹木などの植物の生育を管理し、定期的に剪定したりする管理の仕事もする専門家である。

庭師の歴史

1999年に奈良県明日香村で行われた発掘調査で、飛鳥時代のものとされる宮廷庭園の広大な苑池の遺構が発見され、現在日本最古の庭園と考えられています。
池の護岸や底部には多くの石が敷き詰められ、池の構成方法などから朝鮮半島の影響を受けたものと見られています。

奈良時代
石室の造営や石棺の製作、池溝の開作や築堤など大規模な土木工事に、土木技術者として携わっていた。7世紀、仏教伝来とともに、庭園の技術も百済より伝来した。
平安時代
平安時代末期になると、当時の知識人であった僧侶のうち、作庭に長けていた僧侶が庭師として、造園を行った。その僧侶を、役石(やくいし)、立石僧(たていしそう)と呼んだ。名前の由来は、「樹木の立て入れ」、樹木を垂直に立っているように植えることからきている。庭園の地割、石組、滝・遣水、植裁等の技法について著された「作庭記」が残されている。

平安時代、貴族たちの理想郷である極楽浄土の世界観を再現して園池を配置した浄土式庭園という様式が現れました。
京都の宇治平等院の庭園は、浄土式庭園の代表的なものとされています。

平安京造営と造園
平安京造営にあたり、鴨川が東に寄せられたが、このため旧河川敷には豊かな伏流水があって、これが地泉の水源となり、造園に必要な水が豊富になった。貴船石、白川砂なども造園材料が豊富であった。その上、寒暖の差が激しいという気象条件が、美しい庭木を育てるために好都合であった。以上のような条件が京都において造園技術を発展させた。
鎌倉時代
武家政権が始まった鎌倉時代の庭園では、臨済宗の禅僧であった夢窓疎石によって自然の景観を活かし、禅の思想が反映された庭園も造られました。
京都天龍寺の庭園はその代表的な庭園とされています。
「作庭記」を採り入れた、臨済宗の禅僧夢窓 疎石(むそう そせき)は、京都の西芳寺、天龍寺の庭園の作庭に関る。また、大徳寺大仙院や龍安寺方丈石庭等日本を代表的する枯山水庭園を作庭する。
室町時代
室町時代の善阿弥など「山水河原者」が現れ、庭を造る人物の身分が呼び名にされた。茶の湯の普及と共に、造園は一般町衆の間にも広がり、庶民は庶民なりに庭を暮らしの中に取り入れ、生活の場に生かしていった。室町時代の庭園は平安・鎌倉時代からの流れをくみつつ、禅の精神を石と白砂だけで表現する枯山水という新しい様式が現れました。京都の龍安寺に代表される石庭は今も訪れる人を魅了しています。
安土桃山時代
安土桃山時代には千利休によって茶道が完成し、草庵風の茶室に付随した露地と呼ばれる簡素な茶庭の様式も現れ、現在でも庭造りの参考にされています。
江戸時代
江戸時代には、回遊式庭園の形式が発達し、徳川幕府は作庭責任者を将軍家御庭師とし、御庭掛などを定め、庭園管理に当たらせた。江戸時代には諸国の大名によって広大な庭園が造成されました。名園とされる金沢兼六園や岡山後楽園、高松市の栗林公園、小石川後楽園などは、代表的な池泉回遊式庭園として今も多くの観光客が訪れています。

庭師達

夢窓疎石(むそうそせき)
夢窓疎石は、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧。夢窓派の祖。 夢窓疎石(むそうそせき)または夢窓国師 1275-1351は伊勢の出身といわれ、真言や天台の教学を学んだ後、18歳のときに東大寺で戒を授けられました。 禅宗建仁寺の無隠円範らに学んだ後、高峰顕日の法を嗣ぎ、後醍醐天皇の信任も厚く、七度も国師号を受けたので、七朝国師とも呼ばれています。 全国を巡り、恵林寺(甲斐)や永保寺(美濃)、瑞泉寺(鎌倉)など今でも有名な寺院をいくつも開きました。
天龍寺
臨済宗天龍寺派の寺院で、開山は夢窓疎石です。禅宗の教えに従い、庭園は門の向こうの寺院の建物のさらに奥に、嵐山の絶景を背にするかたちで広がっています。曹源池と呼ばれる池には、滝を表現した石組が中央にそびえ、その前には石橋と複雑に入り組んだ入り江が広がっています。背後の山々に見事に調和したこの石組と池の絶妙な配置こそが、夢想疎石の真骨頂と言えるでしょう。
小堀遠州(こぼりえんしゅう)
安土桃山時代の大名茶人で茶道の流行とともに広まった露地(茶庭)の芸術性を極限まで高めた人物です。備中松山藩の藩主で小堀遠州という名前も通称であり、本名は小堀政一です。当代一の茶人として将軍家の茶道の先生でもありました。
孤篷庵(こほうあん)
孤篷庵は、臨済宗の寺院で臨済宗大徳寺派大本山大徳寺の塔頭である。他の塔頭群とは離れた、大徳寺境域の西端にあります。庵号の「孤篷」は「一艘の苫舟」の意で、小堀政一が師事した春屋宗園から授かった号です。
「一艘の苫舟」(いっそうのとまぶね)の意味は、苫は菅や茅などを粗く編んだむしろということで、和船の屋根をむしろで覆った舟という意味です。 苫、菅や茅葺きの質素な茶室という例に使われた。茶室の忘筌(ぼうせん)とは荘子の「魚ヲ得テ筌ヲ忘ル」(うおをえてうえをわすれる)からきています。筌(うえ)とは魚を捕る道具。その意味は、目的を達すれば道具の存在を忘れる。ということです。
茶室・忘筌(ぼうせん)
小堀遠州が自ら設計した茶室「忘筌席」遠州は大名茶の完成者として、あるいは作庭家として数々の庭園を安土桃山時代から江戸時時代前期にかけて活躍しました。茶室に至る茶庭を建物の中から眺めると、左右の柱、天井から上半分を覆う障子、そして床先によって、景色が長四角に切り取られて見えるようになっています。茶庭から見える茶室、そして茶室から見る茶庭、この2つが一体となるようデザインされているのです。 また、船乗っているかのように設計されたそうだ、天井は胡粉で磨き木目を際ださせ波をあらわす。庭のつくばいに、午後の日が回ると水面に反射して、天井に光が反射しきらきら波のように煌めくとのことです。
露地(茶庭)
露地(茶庭)とは、茶室に付随する庭園の通称です。遠州の茶庭は「きれいさび」と呼ばれ、植物で季節感を演出し、地面を覆う石にも洗練されたデザインを求めました。遠州は庭園を造るだけでなく、建物のデザインにも優れていたため、彼の庭園は建築物との調和も非常に見事になされています。 露地に置かれている蹲には、「露結」と彫ってあり、「ろけつのつくばい」といわれてます。露結とは「露結耳」の略で、兎を意味するとのことです。 兎は隠れたつもりでも長い耳が隠れないのでその耳を結んでおくという意味です。これは、「魚ヲ得テ筌ヲ忘ル」の対句として「兎を捕えてワナを忘る」から、忘筌と同じ意味をあらわしています。禅のせかいとは、意味深く面白いです。
小川治兵衛
近代日本庭園の先駆者小川治兵衛(おがわじへえ)とは、明治時代に庭師として活躍し、数多くの名園を手掛けたのが、「植治」こと七代目小川治兵衛です。 「植治」は最初、京都の伝統的な庭師。山縣有朋(やまがたありとも)の別荘、無鄰菴(むりんあん)を造ってから、景色を美しい景色を池や山を築くことで具体的に庭園の中に再現するという独自のスタイルを確立しました。「植治」の手掛けた庭園の中で最大のものの1つが、京都市岡崎にある平安神宮の神苑です。平安京遷都1100年を記念してつくられた平安神宮は、明治政府による一大事業でありました。神苑を担当した「植治」は、庭の石は伏見城の跡地から払い下げてもらい、石橋は鴨川に架かっていた三条・五条大橋の石を加工したものを用いることで、「植治」は最新の技術と京都の歴史の融合を、この庭園で成し遂げました。
無鄰菴
無鄰菴は、明治27年(1894)~29(1896)年に造営された明治・大正時代の政治家山縣有朋の別荘です。庭園と母屋(木造平屋建(一部二階建)の数寄屋造り)・洋館(煉瓦造り二階建て)・茶室(藪内流燕庵写し)の3つの建物によって構成されており、庭園は、七代目小川治兵衛により作庭された近代日本庭園の傑作。東山を借景とし明るい芝生に琵琶湖疏水を引き込み浅い流れを配した池泉廻遊式庭園で、それまでの池を海に、岩を島に見立てる象徴主義的な庭園から、里山の風景や小川そのもののような躍動的な流れをもつ自然主義的な新しい庭園観により造営されました。

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