書院造
書院造の歴史
| 室町時代に現れた現代和室の原型 |
| 室町時代に誕生した簡素な武家屋敷の様式のことを「書院造」といいます。一般的に障子や襖、棚や床の間などのある座敷のことを指します。合わせて、畳が出現し現代の和室の原型となりました。部屋一面に畳の敷き詰められた部屋は和の趣であり現在の和に繋がれます。この時代は、貴族の統治下にあった政治や文化を武士階級が掌握する社会に移り変わります。それに伴い、住居も武士の生活に合う建築様式に変化します。書院造は、平安時代に貴族階級が住んでいた屋敷の様式である「寝殿造」が元になっています。この時代、寝殿造には客間がありません。武士が台頭する社会になり、武士は忠誠や主従関係を確認するための茶会を催すのに、来客を招くための部屋が欠かせませんでした。そのため、畳を敷き詰めた座敷と襖、床の間が特徴的な客間が誕生しました。それが書院造です。そこでの茶をたてるから書院の茶と言いました。禅の精神の簡素さと、端的でありながら深い味わいをもつ枯淡美の基づいた書院造。床の間や違棚(ちがいだな)、縁側に張り出した飾り棚である付け書院などの座敷飾りは、主人の権威を誇示しています。これらは主人の腰を下ろす背後に位置するため、このことが上座の起源だと言われています。 |
書院造の特徴
| 書院造の建築様式 |
| 書院造では襖、障子などの仕切りが発達し、畳を敷き詰めた部屋が特徴。接客用の広間中心に構成され、室内には仏具や掛け軸のための床の間や、棚板を段違いに取り付けた「違棚」が使われています。また書院造以前の建築物では円柱が中心でしたが、床の間や棚の設置により、必然的に角柱を用いるようになったそう。そして今でも日本の侘び寂びの一つである、「枯山水」も書院造ならでは。禅の思想に基づき、水を使わず石や砂で自然を表現した閑静な日本庭園です。同じ書院造でも、上級武士の屋敷には床の間はなく、「上段の間」が設けられていました。これはその屋敷の当主が、他の家来や武将の一段上に位置するように作られているため。その上、壁に障壁画が描かれることで主人の権威や下克上への戒めを表現していたそうです。 |
書院造の建物
| 二条城」黒書院と白書院造 |
| 世界遺産である「二条城」。1603年(慶長8年)、江戸幕府初代将軍徳川家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿として築いたものです。その中の二の丸御殿は江戸時代の書院造の代表的な建物で、1867年(慶応3年)に15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行う際に使われたことで有名になりました。二の丸御殿は6棟で構成されており、黒書院と白が書院造になっています。どちらにも違棚、座敷などの書院造の特徴はありますが、それぞれ違う特徴を持っています。黒書院は柱や障子の縁などの木の部分が漆で黒く塗られています。この部屋には床の間が設置されており、日常的な行事に使用されていました。対して白書院は木の部分が白い檜のみで作られています。白書院には上段の間が設けられ、公的な行事を行う際に使用されました。また両部屋の障壁画や襖絵は、狩野探幽(かのうたんゆう)らが描いたもの。黒書院の床の間には厳たる松と散りゆく桜が交えられており、徳川家当主の厳格さと冷静さを表現しています。それに対して白書院は水墨画に包まれる空間となっているため、黒書院のような強さに比べて落ち着いた印象を与えます。 |
| 銀閣寺・東求堂(国宝) |
| わびさびを特色とする東山文化の代表格とされている「銀閣寺」。1482年に室町幕府第8代将軍足利義政の山荘として建てられ、義政の死後に寺院として改められました。その際に義政の守り本尊を祀るために建てられた東求堂(とうぐどう)。ここの一室である同仁斎(どうじんさい)は、床の間や棚、造り付けの机を備えた書院造となっています。飾らないひっそりとした美を表す「わび」と、古びて趣がある様子を表す「さび」を尊ぶ東山文化は、ここから生まれたとされています。東求堂は礼儀や上下関係を戒めるものではないことから、床の間に絵や装飾品は置かれていないそう。 |
| 天下の三棚(修学院離宮、桂離宮、醍醐寺三宝院) |
| 天下の三棚(修学院離宮、桂離宮、醍醐寺三宝院)実は違棚にもいくつか種類が存在します。京都比叡山山麓に位置する修学院離宮にある「霞棚」、桂離宮の「桂棚」、醍醐寺(だいごじ)三宝院にある「醍醐棚」は、「天下の三棚」と呼ばれています。 |
茶室
茶室の歴史
一般に独立した茶室は、利休が創設したように言われがちでありますが、独立した茶室は、建築されていないが、茶室のような小部屋は平安時代、鎌倉時代の庭園にもみられました。
室町時代の楽人、豊原純秋は永正年間(1504~1521)に自宅の奥に、山里庵という名の小亭を建て、そこで和歌の師の三条西実隆に茶を献じたと言う。庭の一隅に、こうした小庵をつくり和歌や連句を楽しむのが室町の流行だったようだ。 この流行が発展していき、小亭が茶の湯の会に利用されるようになったと思われる。
豊原家は代々笙を家業としていた。後柏原天皇の音楽の師範として、天皇に笙を教える立場にあった。三条西実隆に和歌を、宗長に連歌を学び、書道や茶道にも精通した文化人であった。室町時代後期、戦国時代の楽家
村田珠光(じゅこう)(1423―1502)は新しい草庵の茶を確立したと伝えられるが、すでに足利(あしかが)将軍邸では殿中の茶が行われていた。そこでは、茶の湯棚を据えた「茶の湯の間」が設けられ、座敷飾りをした客座敷に運ぶ形式であった。記録によると、茶の創設者である村田珠光の後継者、宗珠(そうじゅ)が、京都・下京の家に設けていた茶室は「山居之体(さんきょのてい)」を表し、「市中の隠」と評されていた。茶室もまた「山居」の草庵のたたずまいを理想としたのである。
室町時代には囲(かこい)、座敷、茶の湯座敷などとよばれ、茶の湯棚には唐物(からもの)ずくめの諸道具が飾られ、格式と法式の厳重な構えの茶であった。珠光たちの草庵の茶は、六畳、四畳半ほどの小室に、客と亭主が集うというサロンの形式で、茶を点てる亭主の座と客座とが一室に収められていた。それは狭いながらも畳が敷き詰められ、一間床(いっけんとこ)を備えた「座敷」であった。
武野紹鴎(たけのじょうおう)(1502―1555)
茶事専用の施設である茶室は、草庵(そうあん)風茶室の成立に始まる。武野紹鴎(たけのじょうおう)(1502―1555)の四畳半で、多くの茶人がそれを範とした。しかしその四畳半は名物(めいぶつ)持ちの茶室とされ、わび数寄を好む者は、床なしの茶室か、さらに狭い座敷をつくった。そして紹鴎から千利休(せんのりきゅう)(1522―1591)の時代へかけて茶室の草体(そうたい)化がくふうされていった。名物とは、唐物の飾り物。
千利休(せんのりきゅう)(1522―1591)
利休は、名物(唐物)の権威に支配された四畳半の伝統を打破して、もっぱらわび茶のための茶室として二畳敷を完成した。待庵(たいあん)(国宝)にみるごとく丸太柱に土壁の完全な草庵の造りであった。簡素な素材による繊細で狭小な空間の中に、緊張感のみなぎる構成とともに深い精神性を漂わせ、わび茶の心意気を満たした。茶の湯を行なう小亭は、草庵風の茶室から出発したが、ここには、庶民とは無縁とされていた床の間がついた。貴族階級の書院建築の特色である床の間が、庶民的な草庵と結びつくところがいかにも日本的な気がする。貴族文化と庶民文化が混じりあいながら、互いに影響しあいながら、茶室文化が完成してきたと言えるからである。
千宗旦(せんのそうたん)(1578―1658)
千宗旦(せんのそうたん)は利休のわび茶の側面を深化し、千家の代表的な茶室として床なしの一畳半を建てて不審庵(ふしんあん)とした。隠居後は二畳敷(今日庵(こんにちあん))を、ついで利休四畳半(又隠(ゆういん))を造立した。宗旦と3人の子によって確立された三千家(さんせんけ)は、利休流の茶を継承して現在に至っている。
| 広間と座敷・茶室 |
| それまでは座敷と明確な区別はされず、広い意味で客をもてなす場所として認識されてきたからだと言える。事実、秀吉の『北町大茶湯記録』(天正15年・1587)には、「座敷之儀ハ松原ニテ候条 畳弐帖」と記されており、二畳敷でさえ座敷と表現していたくらいなのである。 広間としての客間と、小さな空間に客をもてなす茶の湯のための茶室とを区別するのは、基本的にはその空間の広さによってであった。一般に茶室を分類して「数奇屋」と「囲い」の二種とし、数奇屋は主建築と離れた独立した茶室、囲いは主建築の一部になっている茶室と言われる |
| 数奇屋と囲い |
| 「茶室」と言う呼び名は、発生した室町・桃山時代はもちろん、江戸時代においても茶関係の文書にはほとんど出てこない。南浦の「茶話室」(元和6年・1620)に出たのが最も古い例と言われているが、一般には広く普及していなかった。茶室という言葉が広く使われだしたのは江戸末期からである。 |
| 利休の著書「南方録」 |
| 利休の著書と言われている「南方録」には、小座敷、小座舗(こざしき)の文字が用いられているが、この本では、小座敷は四畳半より小さな茶室をさしていたことが分かる。 一般に茶室を分類して「数奇屋」と「囲い」の二種とし、数奇屋は主建築と離れた独立した茶室、囲いは主建築の一部になっている茶室と言われるが、実際はこの言葉は江戸時代には同じように茶室と言う意味で使われている。 |
| 茶事専用の施設。室町時代には囲(かこい)、座敷、茶の湯座敷などとよばれた。その後、数寄屋(すきや)とも称された。茶室あるいは茶室建築の呼称が普及するようになったのは近代のことである。茶室とは茶事を行うための施設で、それは茶室という建築と露地(ろじ)とよばれる庭から成り立っている。茶室と露地とは一体となって形成され発展してきた。露地を含めて茶室建築とよばれることもあるゆえんである。 |
| 茶の湯を行なう小亭は、草庵風の茶室から出発したが、ここには、庶民とは無縁とされていた床の間がついた。貴族階級の書院建築の特色である床の間が、庶民的な草庵と結びつくところがいかにも日本的な気がする。貴族文化と庶民文化が混じりあいながら、互いに影響しあいながら、茶室文化が完成してきたと言えるからである。 |
| 広間と小間・茶室の間取り |
| 茶室の間取りはきわめて多様であるが、方形の四畳半を基準としている。そして、四畳半以上の広さを広間、四畳半以下を小間と称する。四畳半はその造り方によっていずれにも属しうる広さである。 |
| 出入口 |
| (1)躙口(にじりぐち) |
| 露地口から中門を経て最後に到達する関門が躙口である。客は踏石の上にかがみ、敷居に手をつかえ一礼して高さ二尺三寸(約70センチメートル)、幅二尺二寸(約67センチメートル)ほどの口から茶室へ躙り入るのである。四畳半以下の狭い座敷も、躙口を隔てると大きな空間に見える。躙口には板戸がたてられる。その板戸は雨戸を切り縮めたような麁相(そそう)な造りで、そこにもわびの気持ちが込められている。最後の客がこの戸を閉めると、室内の明暗は窓だけによって支配される。躙口の板戸は、挟み敷居、挟み鴨居(かもい)という特殊な機構で開閉するようになっている。 |
| (2)貴人口(きにんぐち) |
| 躙口に対して腰障子をたてた通常の上り口を貴人口とよんでいる。しかし高さは一般の出入口よりかなり低い。躙口とは別にこの形式を貴人用として開けたことから始まった呼称であろうが、躙口の有無に関係なくこの形式を貴人口と称する。(3)茶道口(さどうぐち) 点前(てまえ)のために亭主の出入りする口。枠をつけた方立(ほうだて)口の形式が多く、ときには壁をアーチ状に塗り回した火灯口(かとうぐち)(花頭口)にする場合もある。また二本襖(ふすま)の口にすることもある。高さは五尺一寸(約155センチメートル)ぐらいを標準とする。(4)給仕口(きゅうじぐち) 亭主が客座へ直接給仕に出る口をいう。間取りによっては給仕口がどうしても必要なことがある。火灯口の形式が用いられ、茶道口より低く四尺二寸(約127センチメートル)前後の高さを標準とする。 |
| 床 |
| 書院造の座敷では上段の間を「床」とよんだ。そこに押板や棚などがつくられて座敷飾りが行われた。客を迎える茶室にもそのような場所が必要であった。茶室ではそのために「床」だけが設けられた。貴人の座と飾りの場とを兼ねたわけだが、もっぱら飾りの場となった。もとは名物(唐物)だけを飾るところとされていたが、利休のわび茶が確立されるや、床のなかも土壁にかわり、客をもてなす亭主の温かい心入れを託することが床飾りの主題となった。それで客は席入りしてまず床を拝見する。床の飾りを通じて、亭主と客の心が触れ合い、茶事の興趣が高まるのである。 |
| 窓 |
| 草庵風茶室に使われる窓は、下地窓(したじまど)、連子(れんじ)窓そして突上(つきあげ)窓である。 |
| 1)下地窓(したじまど) |
| 下地窓は壁を塗り残すことによってできる窓で、壁下地が露出している。縦・横の下地にはヨシ(葭)を使用するのが普通である。壁を一部塗り残すために弱まる壁体の補強の意味で、外壁にタケを添え立てる。これが力(ちから)竹である。位置、大きさ、形を自由に決定できる下地窓は、茶室の微妙な明暗の分布をつくりだすのに絶妙の機能を持ち合わせている。 |
| 2)連子(れんじ)窓 |
| 連子窓には普通、竹連子が適当な間隔に打たれ、あふち貫(ぬき)(横桟)が添えられる。化粧屋根裏(掛込(かけこみ)天井)に突上げ式の天窓を開けることがある。朝茶のとき、白みかかる朝の光を導入するなど突上窓の扱いが茶事に風趣を添える。 |
| 3)突上(つきあげ)窓 |
| 草庵風茶室に使われる窓は、、突上(つきあげ)窓である。 |
| 4)風炉先窓 |
| 風炉先(ふろさき)に開ける窓を風炉先窓 |
| 5)墨蹟(ぼくせき)窓 |
| 床の脇(わき)壁に開ける窓を墨蹟(ぼくせき)窓 |
| 6)色紙(しきし)窓 |
| 点前座の勝手付(かってつき)などに、上下に中心軸をずらして配置する二つの窓が色紙(しきし)窓とよばれる。 |
| 天井 |
| 茶室の天井は一面に平たい天井(平(ひら)天井)の張られることもあるが、高低がつけられたり、化粧屋根裏が組み合わされることもある。一段低い天井を落(おち)天井と称し、多くは点前座に用いる。客座に対し亭主の座を謙虚に演出する。材料も平天井をイネ板張りとすれば、落天井にはマコモやガマなどが用いられる。天井を張らない形式が総屋根裏で、「わび」に徹した表現である。 |
| 炉 |
| 茶室にはかならず炉が切られる。江戸時代以降、炉の大きさは一尺四寸(約42センチメートル)四方に定まっている。炉を切る場所として、点前座の中に切る向切(むこうぎり)と隅炉(すみろ)、外に切る四畳半切と台目切の四通りの方法があり、それぞれ本勝手(ほんがって)と逆勝手があるが、後者の実例は多くない。 |
| 中柱 |
| 台目切の場合は、たいてい炉の角に中柱を立て、袖(そで)壁をつけ、その下部を吹き抜き、点前座の袖壁の隅に二重棚をつる。これを台目構えとよんでいる。利休の創始したもので、棚物を使わない草庵独自の茶の構えである。そして中柱を中心とする変化に富む立体的な組立ては、草庵特有の構成美を放つ。なお、この構えは武家茶人も愛好し、書院茶室にまで活用された。 |
| 水屋 |
| 茶湯の準備をするところを水屋、勝手とよぶ。ここには簀子(すのこ)流しの上に棚をしつらえた水屋棚がかならず設けられ、必要な諸道具を並べる。このほか一隅に丸炉を切ったり、長炉を備えることもある。水屋で懐石の支度もしなければならないからである。 |
| 待合 |
| 茶会の時、客同士が待ち合わせたり、席入りの準備をしたりする場所。外露地に独立の建物として設けたり、住居の一部をあてたりする。寄付(よりつき)。 |
| 草庵風茶室 |
| 足利義政が営んだ東山殿の持仏堂(東求堂)が、今も銀閣寺に残っています。その中の一室四畳半(同仁斎)では、義政もお茶を飲んでいました。珠光をここに招いて町衆たちの草庵の茶の様子に耳を傾けた、という伝説があります。この四畳半は完全な書院造りで床もありません。しかしこのような四畳半からだんだん構成が省略され、簡素化されたのが珠光の四畳半でした。さらに武野紹鴎は、簡素化を進め土壁の四畳半に改めました。しかし、その四畳半は唐物持の使う茶室でしたから、唐物を使えない質素なお茶(わび茶)を楽しむ人には無縁のものでした。 そこで千利休は、飛躍的な改革を試み、わび茶しかできない、文字通り草庵風な茶室を、二畳という小さい空間に結実させたのです。それを京都山崎の妙喜庵の待庵に見ることができます。秀吉もこの茶室に招かれ、すっかり魅せられて、大坂城内に二畳敷の茶室をつくりました。こうしてわび茶、草庵の茶が、茶の湯の主流になりました。 |
| 茶室と露地 |
| 茶室は、露地という庭と一体になって、茶の湯をおこなうためのものです。客は世俗の雑念から離れ、潜りをくぐって、清楚な露地を進み、蹲踞で手水を使って躙口から茶室へ入ります。露地は飛石や延段で道をつくり、樹木を植えて静かな山里の雰囲気をつくりだします。室内は日常の暮しの空間とは異なり、低い狭い出入口、低い天井、狭いほの暗い座敷です。丸太の柱で土壁塗りの簡素な造りです。茶室は客座と点前座から成り、床を設け、炉を切って、客をもてなしやすいように、配置されています。そこに工夫をめぐらし、「しつらへ」をされます。茶人はこうした簡素な造りのなかに、茶の湯の心をかよわせ、繊細な心配りによって、隅々まで洗練された空間をつくり出しているのだと想います。 |
| 見立て |
| 千利休は、独自のすぐれた感性によって道具類の形を定めたり、本来茶の湯の道具でなかった品々を茶の湯の道具として「見立て」て、茶の湯の世界に取り込む工夫をしました。 この「見立て」という言葉は、「物を本来のあるべき姿ではなく、別の物として見る」という物の見方です。利休は、「見立て」の心を大いに生かして、日常の生活用品を茶道具に採り入れました。たとえば、水筒として使われていた瓢箪を花入として用いたり、船に乗るために出入りする潜り口を茶室のにじり口に採り入れた逸話などは有名です。茶碗といえば唐物の茶碗が主流であったのに対して、朝鮮半島の雑器であった高麗茶碗をわび茶の道具として採り入れた精神も「見立て」のひとつだといえるでしょう。このように、「見立て」の精神は、茶の湯の原点とでもいうべき心なのです。 |
| 好み物 |
| 茶の湯の世界では、「好み」あるいは「好む」という独特の言葉が使われます。茶人が意匠などを職人に指示して道具を作らせました。すると、その道具にその茶人の名前を冠して、「誰々好み」の道具と呼ばれます。このように、茶の湯の道具類のなかには、茶人の意志を理解した職人の技術によって生み出されたものが多くあるのです。家元の道具を制作する作家の手になる「好み物」が生まれています。千家ではそのような職人を「職家」と呼びます。「職家」には、「千家十職」と呼ばれる十人の職人がいます。 |
| 千家十職 |
| 千家の流れを汲む茶の湯の道具を、代々にわたって「好み」を制作する人たちを「職家」と呼びます。「千家十職」とは、奥村吉兵衛(表具師)、黒田正玄(竹細工・柄杓師)、土田友湖(袋師)、永樂善五郎(土風炉・焼物師)、樂吉左衞門(茶碗師)、大西清右衛門(釜師)、飛来一閑(一閑張細工師)、中村宗哲(塗師)、中川淨益(金もの師)、駒澤利斎(指物師)の十人の職家です。茶の道具の基本としての千利休「好み」の道具が、「職家」の各家で守られ、それぞれの時代の創意工夫が加えられ、今日に伝えられています。このことが「千家十職」の意義といってよいでしょう。 |
平三畳台目茶室 表千家 不審菴(ふしんあん)
利休四畳半茶室 裏千家 又隠(ゆういん)
数寄屋
| 数寄屋造り(すきやづくり)とは、日本の建築様式のひとつであり、数寄屋つまり茶室を作る際の特徴を取り入れた様式のことです。数寄とは、和歌や茶の湯をはじめとして風流なことを好むことを指しており、数寄屋とは好みに任せて作った家という意味があります。 |
| (1)数寄屋造りの由来・はじまり |
| 数寄屋が誕生したのは、安土桃山時代のことです。もともとは母屋とは別に立てられた小規模の茶室のことを特にさして数寄屋と呼んでいました。数寄屋が生まれる前は、権力はわかりやすく目に見える形で示すことが主流であり、床の間や棚、付書院を備えるなどといった座敷を豪華にしていく書院造りが主流でした。これによって身分や格式を維持する役割を持っていたのですが、茶人たちはこの格式ばった形式を倦厭しはじめます。次第に庶民の住宅にも使われるような粗末な材料などを使って作られる軽妙写楽な数寄屋が好まれるようになります。 そして、千利休によってわび茶(茶の湯)が完成され、無駄なものをどんどんそぎ落として、シンプルさの中に美しさを見出す、現代のスタイルが確立されるようになりました。 |
| (2)江戸時代以降 |
| 江戸時代以降は、茶室をはじめとして住宅など幅広い場所で見られるようになり、素材も高価なものを使うようになったため、数寄屋造りを取り入れた歴史的建造物も数多く存在しています。代表的な建物としては、桂離宮新書院をはじめ、修学院離宮、伏見稲荷大社御茶屋などです。もともとは質素を追求した建築様式を数寄屋造りと呼んでいましたが、時代の流れとともに変化し、現代では特別に高価な素材を使用し、かつ高度な技術を用いて作られた高級建築という意味でつかわれることも多いです。 |
| (3)数寄屋造り(すきやづくり)と書院造り |
| 数寄屋造り(すきやづくり)では、書院造りの格式や様式を極力排して作られていることが特徴であり、虚飾をせず、内面を磨いて客人をもてなすという茶人の精神性を表した作りとなっています。つまり、書院造りを基本としつつも、風流でありつつ繊細、質素かつ洗練された意匠が特徴的です。庭の四季によって季節を感じさせたり、周囲の景色を活かした借景を楽しむ間取りとなっていることも特徴のひとつです。特別に定まった形式が存在しないことも、数寄屋造りの特徴ではありますが、いくつかのポイントはあります。数寄屋造りの特徴のひとつは、自然との調和を図るための自然を素材とした多様な建材を使用していることです。竹や杉の丸太を好んで使っているほか、竹の節を活かしたり、木の経年劣化を楽しむなどの素材の良さを活かすことが大切にされています。壁も白壁ではなく聚楽亭で代表的な土壁で、左官技術が大いに活かされています。シンプルな意匠も特徴です。床の間は書院造りに比べて簡素で自由、段差も少ないです。押上を省略するほか、濃い陰影と静謐を生み出す深い庇といったものもあります。現代では数寄屋造りの様式を様々な場所に取り入れています。直線を活かした外観や無駄な装飾を省いた清楚で簡素な内装を活かしたデザイン、自然素材を生かした作り、借景などがその代表です。 |
| (4)数寄屋造り(すきやづくり)の魅力 |
| 数寄屋造り(すきやづくり)には、様々な魅力があるとともに、現代建築のあらゆる場面で垣間見ることができます。現代の建築デザインの多くは、軽くやわらかな印象を与えるデザインが主流となっていますが、この考えは数寄屋建築が生み出されてから続いてきたものです。多くの人々が自然となじむ造りとなっている点が、数寄屋造りの第一の魅力でしょう。また、軽快で無駄を極限までそぎ落としたシンプルなデザインを取り入れているということも大きな魅力です。質素でありながらも、みすぼらしいことはなく、洗練された美しさがあります。 歴史的な建築様式であり、華美ではないにもかかわらず質の良さを感じることができます。数寄屋造りの特徴である素材を活かした造りも、魅力のひとつです。竹に杉、ヨシ、土壁などといった形式にとらわれずに様々な素材を自由に選択し、それらの良さを引き出すことに力を入れて無駄な加工をしません。木目の美しさや経年劣化の変化を趣向や建物の特徴に合わせて楽しむことができます。 |
京町屋
| 壱 京町家とは |
| 由緒ある史跡が多いだけでなく、古くからの町家がそのまま残っている古都、京都。近年では、昔ながらの町家を利用した飲食店なども増えており、歴史を感じられます。町家ブームの中でも、京都の町家は特に「京町家」と呼ばれ人気になっています。京都市内に古い家屋が多いのは、太平洋戦争において爆撃地域から除外されていたためです。わずかではあるが、江戸時代の家屋も残っています。江戸時代半ばには、現代でいう京町家と似た構造になっていたと推測できます。しかし、京町家とは具体的にどんな家屋を指すのだろうか?その定義はどういうものなのか、確認してみます。 |
| 弐 京町家の特徴とは |
| 京町家の特徴としてよく挙げられるのが、間口は三間程度と狭くて奥行きが深く、いわゆる「鰻の寝床」と呼ばれる町家が多いことです。 しかし、敷地が狭くても庭はあり、敷地の一番奥の往来から離れて、家族で過ごす家となり、くつろげる場所に造られているのが一般的です。商家なら、くぐり戸を抜けると商売を営む「店の間」があり、その奥に玄関庭が作られ。玄関から裏庭までつながる土間を「通り庭」と呼びます。その途中に坪庭(前栽)と呼ばれる小さな庭があります。客をもてなす座敷は建物のもっとも奥側にあり、簡素でも床の間が造られている。また、往来に面して格子が設置されていることも特徴のひとつで、その格子の形で商家の職種がわかりました。また、格子は、屋外からは家の中が見えづらいが、室内から外はよく見えるため、プライバシーを守ると同時に、来客への対応がスムーズにできました。外壁に「揚見世(ばったん床几)」と呼ばれる折りたたみ式の床几が設置されています。 |
| 参 虫籠(むしこ)窓 |
| 虫籠(むしこ)窓と呼ばれる塗籠式の、目の細い窓も京町家の特徴的意匠です。虫籠窓は低い二階や屋根裏につけられており、「虫籠」と表記します。酒屋や麹屋で使う「蒸しこ」に似ているからこの名がつけられたとする一説もあります。竹や木をゆるやかにカーブさせた「犬矢来(いぬやらい)」と呼ばれる垣根も目を引きます。犬矢来は、往来する馬のはねる泥や、犬や猫の放尿から板塀を守るものですが、装飾性が高く、見た目にも美しいです。これも京町家の特徴のひとつです。 |
| 四 京町家の格子 |
| 往来に面している京町家の格子 |
| この格子の形状は、時代によって変化してきました。どのように発生し、発展したかは屏風絵などから推測するしかありません。もっとも古いと思われるのは縦横均等に格子子(こうしこ)を組んだ単純な格子です。 |
| 一)京格子 |
| 江戸時代になると、竪子を見附八分(2.8センチ)前後に規則正しく並べた、繊細な「千本格子」が作られるようになり、「京格子」と呼ばれた。外壁面と一直線に作られるものを「平格子」と呼び、張り出したものを「出格子」と呼びます。木地のままで荒格子組みの米屋格子、彩色された荒格子組みの酒屋格子、二つ割りにした丸太を用いた木格子といった素材や構造による分類がすることができます。花街に用いる吉原格子や塀などに用いる高格子などの用途による分類もできます格子が京町家に欠かせないものだったのです。商家でよく見かけるのは糸屋格子は、太い親竪子の間に、細い子竪子1本~3本入り、一本子持ち、二本子持ち、三本子持ちなどと呼ばれました。 |
| 二)紅殻格子 |
| 京町家の格子は紅殻(べんがら)が塗られており、「紅殻格子」と呼ばれます。紅殻は酸化鉄を原料とする紅い顔料で、防腐剤や防虫剤の役目も果たしています。格子と並ぶようにして、庇の下の外壁に設置された揚げ見世は、商いの場にもなったほか、祭りの時には桟敷ともなった。京町家における庇部分は外でもあり内でもあり、通りと家の結界でもあったのです。 |
| 一)庭のしつらえ |
| 京町家の魅力のひとつは、四季折々に表情を変える庭だろう。メインとなる奥の庭には植え込みや石が配置され、常緑樹のほかにもみじや椿、馬酔木などの季節を感じさせる木が植えられています。座敷から降りたところに沓脱石(くつぬぎいし)と呼ばれる大きめの石が置かれ、さまざまな形の飛び石が庭の中に延びている。つくばいは手を洗うだけではなく、浮き世の塵を払う意味があり、茶室の前に設けられることが多いのです。 |
| 二)通りと坪庭 |
| 通り庭はなるべく太陽のあたる方角に設けられています。東西向きの町家なら南側寄り、南北向きの町家なら東側寄りに設けられた土間空間のことです。表の通りから敷地の奥まで、一直線で通じています。通り庭に作られる坪庭は日当たりがよくないことが多いので、棕櫚竹や千両など、日陰でもよく育つ植物が植えられていることが多いです。 |
| 三)はしりと天窓 |
| 建物内部に客人を招き入れる通路で、おくどさん(かまど)や井戸、流し、水屋、置き戸棚などを設置した「はしり」もここにある。はしりは炊事が行われる場所で、夏には入り口の引き戸を開放し、風が通り抜ける道にした。はしりは土壁に囲まれた吹き抜けになっており、屋根には天窓があります。天窓から縄が釣り下がっていて、居住空間から板戸の開け閉めが可能です。天窓は炊事の煙を出すためのものでもあるが、火が出た場合でも火勢が上に抜け、延焼しにくくする利点があります。町家が密集する京都において、防火は大変重要な問題でした。 |
| 一)京町家の座敷とは、庭を眺められる部屋が座敷です。 |
| 一番奥にあってもっとも格式が高く、客室にもなります。意匠を凝らした床柱があり、鴨居の上部には「落とし掛け」が渡されています。「床柱」に花を活け、「本床」と呼ばれる壁には掛け軸などを掛けて、客をもてなします。冬の間、襖や障子が設置されていた開口部は、夏になれば簾や簾戸に取り替えられます。 |
| 二)施主の工夫と京町家の定義 |
| このように、施主がさまざまな工夫を行いました。京町家は一概に定義はできません。しかし、畳は3.15尺(約96センチ)×6.30尺(約192センチ)の京間寸法が一般的であり、鴨居までの内法寸法も5.7尺(約173センチ)と決められています。そのおかげで、建具や欄間飾りなどの譲り渡しが可能であり、古い調度品が残されてきたのだろうと思います。 |
| 七 いまの京町家 |
| 「京町家」という呼称が生まれたのは、そう古い時代ではありません。高度経済成長期に建て替えが盛んにおこなわれました。 建築基準法が改定され昭和25年以前に建造された古い木造住宅を「京町家」と呼ぶようになりました。近年、京町家は古い時代を偲ばせ、観光資源としても注目されています。京都には、京町家を利用したカフェやゲストハウスもたくさんできました。訪れた際に京町家の造りの特徴も見てみて下さい。また、本当の京町家がどうか?確認して下さい。 |